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2021年2月17日信長に寵愛された小姓!本能寺の変で信長とともに討たれた森蘭丸はどんな人物だった?
2021年2月18日本能寺の変で、織田信長に一番槍を喰らわせた人物と言えば「安田国継」だよ。
では、安田国継はいったいどのような人物だったんだろう?
ここでは安田国継についてまとめてみよう。
目次
【安田国継は光秀の重臣・斎藤利三に仕えていた配下】
安田国継は明智光秀の家臣であった斎藤利三に仕える配下だったんだ。
つまり光秀にとっては配下の配下であったんだよ。
安田国継の功績はよく分かっていないけれど、本能寺の変では先鋒の一員として活躍していたことからも信頼されていたことが分かるよね。
【本能寺の変で、信長に一番槍を喰らわせる】
天正10年6月2日午前4時頃、明智軍が本能寺を襲撃。
13,000もの兵力があった光秀軍と、わずかの手勢のみの信長軍では差が歴然だったんだ。
信長が気付いた時にはすでに本能寺を包囲されてしまっていたので、信長方とすればもうどうすることもできなかったの。
安田国継は明智軍の先鋒として本能寺へ攻め込んだよ。
その頃、信長は寵愛する小姓・森蘭丸から「名もない武士に討たれてはなりませぬ」という進言を受けて、障子を閉めて屋敷の奥へ進もうとしていたんだ。
その現場偶然目にした安田国継は、「信長公、返させ給へ」と叫びながら、信長の後を追って、縁側へ飛び乗り、障子越しに槍を突き出したの。
信長のところまで前進した安田国継は、信長に一番槍をつけたよ。
安田国継の槍は信長の体を鋭く突いたともいわれているんだ。
さらに安田国継は障子を破って信長を討とうとしたときに、信長の危機を察知した森蘭丸に行く手を阻まれるんだ。
蘭丸が突き出した十文字槍によって、安田国継は下腹を突かれて負傷。
しかし、それでも安田国継はあきらめず、蘭丸の槍の穂先を摘み、屋敷の縁側から引きずり下ろし、態勢を崩した蘭丸を下から刀で突き、討ち取ったんだ。
蘭丸を討ち取った安田国継は、信長の首を取りに向かうものの、すでに信長は燃え盛る屋敷の奥へ姿を消してしまっていたよ。
信長の首は取れなかったものの、信長に一番槍をつけ、森蘭丸を討ち取ったという功績は、その後長らく安田国継の誇りとなるよ。
その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、落ち武者に遭い自害。
褒美をくれる人がいなくなってしまった安田国継は、明智家をあっさりと出ることになるんだ。
【天野源右衛門と名前を変えて新たな主を求めて様々な大名を転々とする】
明智家を出た安田国継は「天野源右衛門」と名前を変えて、新たな主君を探し始めたよ。
羽柴秀勝(信長の四男で秀吉の養子)や豊臣秀長(秀吉の弟)、蒲生氏郷(信長の娘婿)などの仕えるものの、結局はうまくいかなかったんだ。
その後、文禄3年(1594年)までは立花宗茂に仕え、肥後国人一揆や文禄・慶長の役などにも参加したんだ。
立花家も去った安田国継は、寺沢広高に仕えて8,000石をもらったんだ。
しかし、本能寺の変からちょうど15年後、慶長2年(1597年)6月2日に、頬に原因不明の出来物ができ、自ら命を絶ったよ。
本能寺の変からちょうど15年後のことであったことから、当時の人々は「信長の祟りだ」と噂したと言われているんだ。