天下はたった3日だけ…光秀の最後の戦い「山崎の戦い」を徹底解説
2021年2月17日本能寺の変を事前に知っていた光秀の重臣・藤田伝吾は筒井順慶の取り次ぎ役としても活躍した?
2021年2月17日「麒麟がくる」最終回では、ついにクライマックスの「本能寺の変」が描かれていたよね。
明智光秀は主君・織田信長を討つ決意を固め、重臣である明智左馬助(間宮祥太朗)、藤田伝吾(徳重聡)、斎藤利三(須賀貴匡)の3人を呼び寄せたよね。
ここでは光秀に従い本能寺の変を起こした、重臣・明智左馬助についてまとめてみよう。
目次
【本能寺の変で先陣をつとめた明智左馬助は光秀に最も信頼された重臣だった?】
明智左馬助(明智秀満)は、光秀が最も信頼していた重臣として知られているけれど、生年、出生地は不明で、その前半生に関してもよく分かっていないんだ。
謎が多い明智左馬助が史料に登場するのは天正6年(1578年)になってからなの。
明智左馬助が明智光秀の娘をめとったことが記されているよ。
明智姓を名乗るようになっていた天正8年(1580年)頃、明智左馬助は主君・光秀から絶対的信頼を勝ち得ていたことが光秀の書状の出し方からも確認できるんだ。
この頃、明智左馬助は明智家代表補佐として自他ともに認められた存在だったんだよ。
年齢に関しても生年が分かっていないため謎なんだけれど、光秀よりも20~30歳程年下であったと言われているんだ。
【福祉山城の城代も任されていた】
若い明智左馬助だったけれど、天正9年(1581年)には丹波国(現在の京都府)福知山城の城代にも任命されているの。
福知山城のある福知山地方は京都と山陰エリアをつなぐ交通の要衝だったんだ。
明智家の本拠地である坂本城は、京都と近江をつなぐ要衝だったけれど、福知山城はその次に大事な要衝であり、そこを任されているということからも明智左馬助がどれほど光秀の信頼を得ていたかがよく分かるよね。
【文化人としての素養もあり】
明智左馬助は文化人としても実力のある人物だったんだ。
光秀が主催した茶会では饗応役(接待役)に指名されていたこともあるの。
この当時、織田家にとっては「茶」の席は政治的にも特別な存在だったんだ。
主君・光秀と、光秀の主君である織田信長が茶器茶会を重要視していたのは有名な話だよね。
明智左馬助は、戦場だけではなく、茶を通じた政治外交の手腕も期待できるとあって、光秀にとってはとても重要な存在だったと言われているんだ。
明智左馬助は明智家ではもちろん、織田家全体の中でも有力な地位を築いていたとも言われているよ。
【最初に本能寺襲撃について打ち明けられたのは明智左馬助だった?!】
「政春古兵談」によると、光秀から信長への謀反、つまり本能寺襲撃について最初に打ち明けられたのは、他ならぬ明智左馬助とされているんだ。
明智左馬助はこの話を聞いた当初、反対したそう。
しかし、光秀が他の斎藤利三や藤田伝吾など複数の家臣にも動揺の相談をしたことを知ると、ついに腹をくくったそう。
複数の家臣にその意思を明かしてしまった以上、信長公にも知られてしまうだろう…、もう実行するしかない!光秀を後押ししたと伝わっているよ。
【本能寺の変では先陣を務める】
天正10年(1582年)6月2日未明に起こった本能寺の変では、明智左馬助は先鋒を務め、成功に大きく貢献したと言われているんだ。
ちなみに信長に一番槍の喰らわせたのは斎藤利三配下の安田国継とされているよ。
明智左馬助は、二条にいた織田信忠も自刃に追い込み、本能寺の変自体は成功したと言われているんだ。
しかし、本能寺の変の後に事態は一転。
信長の遺体を発見することができず、味方をしてくれると思っていた細川藤孝や筒井順慶らには協力を拒絶されてしまうんだ。
さらには羽柴秀吉が中国大返しを強行するなど、光秀派にとっては暗雲が立ち込めてしまうの。
【光秀の最期・山崎の戦いには明智左馬助は参戦していない?】
天正10年(1582年)6月13日に起こった明智軍VS秀吉軍の山崎の戦いでは、勢いや兵数の勝る秀吉軍に大敗し、光秀は14日に絶命してしまうよね。
明智光秀は小栗栖(京都市)の藪で、落ち武者狩りに遭って殺されたというのが定説なんだ。
この時、明智左馬助は山崎の戦いには参戦していなかったの。
その理由は、最重要拠点であった安土城の守備を命じられていたからなんだ。
光秀が秀吉に負けて絶命したことを知り、明智左馬助は急いで安土城を脱出して、坂本城を目指すよ。
その途中、琵琶湖近郊の打出浜で、秀吉方の武将・堀秀政と戦い敗れ、坂本城へ逃げ延びたんだ。
【明智左馬助の有名なエピソード「左之助の湖水渡り」とは?】
打出浜での堀秀政との戦いに敗れ、単騎で戦場を離脱し、坂本城への帰還を試みた明智左馬助には有名なエピソードがあるよ。
それが「明智左馬助の湖水渡り」なんだ。
坂本城へ逃げ帰ろうとする明智左馬助だったけれど、陸地は四方を敵に囲まれてしまい、突破が難しい状況だったの。
そこで、明智左馬助は打出浜の近くにある琵琶湖に馬を引き入れて、湖を馬に泳がせて戦場を離脱したと言われているんだ。
このエピソードは「明智左馬助の湖水渡り」と呼ばれていて、小説やドラマなどにもエピソードとしてよく登場するよ。
打出浜から坂本城のある対岸までは数キロ以上あるため、馬に乗って湖を渡るなんて非現実的だよね。
この伝説はフィクションであると考えるのが妥当とされているよ。
ただ近年の研究においては、明智左馬助は坂本城まで逃げ延びたのは事実だけど、逃走手段は馬ではなく舟であったと指摘されているんだ。
舟を使って琵琶湖を渡ったのであれば、納得できるよね。
【明智左馬助の最期】
坂本城へなんとか逃げ帰ってきた明智左馬助は、事後処理に奔走したと言われているの。
敵に処刑されることが確実である光秀の妻子を、明智左馬助自らが絶命させたんだ。(妻・煕子については病死説もあるよ)
そして、追撃してきた堀秀政に対して、坂本城内にある文化財を譲り渡したと言われているよ。
最期は、城に自ら火を放ち、自害したんだ。