播磨平定のクライマックス「黒井城の戦い」と平定後の光秀の城郭整備とは?
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2021年2月15日
天正7年(1579年)6月、丹波を支配していた波多野秀治の居城である八上城を落城した明智光秀は、続いて7月には宇津頼重の居城である宇津城を攻めることになるよ。
ここでは宇津城についてまとめてみよう。
目次
【丹波攻めの始まりは宇津城城主である宇津氏を討つことが目的だった?】
元々光秀が織田信長の命によって始めた丹波攻めは、織田信長に従わない丹波国守護代の内藤氏・宇津氏を討つために始まったんだ。
「信長公記」にもそのことについては記されているんだ。
当初の丹波攻めの目的は、丹波国守護代の内藤氏と宇津氏であったにも関わらず、途中で実力者であった赤井氏や波多野氏に侵攻を阻まれてしまったために、そちらに手を焼いてしまったというわけなの。
やっとのことで波多野氏との決着がついて、ようやく宇津氏攻略に手を付けることができたんだ。
明智光秀は長期間にわたる八上城の攻略を追え、波多野氏を滅亡に追い込んだよね。
しかしこの時、丹波には黒井城の城主・赤井忠家と、宇津城の城主・宇津頼重が依然として信長軍に抵抗を続けていたんだ。
つまり、彼らを倒さない限りは、完全な丹波平定とは言えなかったんだよ。
とりわけ、宇津城城主・宇津頼重は、禁裏御料所の山国荘をたびたび違乱していて、止めるように命じても応じず、とても手を焼く存在であったんだ。
つまり、頼重は朝廷にとっても厄介な存在であり、違乱に悩まされていた朝廷側としても、宇津城攻めはぜひともやってもらいたいという意向だったの。
【宇津城はどこにあるの?】
宇津城は現在の京都市右京区に合併された丹波国北桑田郡の下宇津集落にあるよ。
標高365mの山頂にあったお城で、宇津庄を押さえて丹波国東部に勢力を張った宇津氏が本拠としていた戦国山城なんだ。
宇津城は山上の主郭を中心に、北方尾根筋に二段の曲輪と大堀切、主郭の南側と西方に腰曲輪が築かれていたの。
【宇津城攻めは短期間で決着】
宇津城攻めについて「信長公記」においては、
「七月十九日、惟任日向守、丹後へ出勢の処に、宇津構明退候を、人数を付け、追討に数多討捕り、頸を安土へ進上。それより鬼か城へ相働き、近辺放火候て、鬼か城へ付城の要害を構へ、惟任人数入置く。」と書かれているよ。
宇津城攻めに関しては、短期間で決着がつき、宇津城は落城したんだ。
なんと、光秀の存在を恐れた、宇津頼重は、宇津城を放り出して逃走してしまうの。
なんともあっけない勝利に終わったんだ。
光秀は天正7年(1579年)7月24日、宇津城落城の軍功を朝廷から称えられ、馬、鎧や香袋を与えられたと言い伝えられているんだ。
宇津城落城に成功した光秀は、その後、細川藤孝とともに丹後の一色義道・義定父子の討伐を行い、さらには最後の城となる黒井城の攻城に取り掛かることになるよ。