信長が就任した権大納言・右近衛大将とはどんな役職だった?官位に就くことによって得られるメリットはあったの?
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2021年1月24日
「麒麟がくる」第39回には権大納言・右大将に任命された織田信長が、任官の挨拶もせずに岐阜に帰ってしまうよね。
その態度に怒った石橋蓮司さん演じる三条西実澄が岐阜までやってくるんだ。
では三条西実澄はいったいどんな人物なんだろう?
ここでは三条西実澄(三条西実枝)についてまとめてみよう。
目次
【三条西実澄(三条西実枝)とは?】
三条西実澄(さんじょうにしさねき)は戦国時代の公卿で和歌をたしなむ歌人でもあったんだ。
さらに三条西実澄は古典学者でもあったんだよ。
朝廷に出仕すると参議や権中納言を務め、天文10年(1541年)には権大納言となったの。
天文21年(1522年)以降は京都を離れ駿河国へ。
永禄12年(1569年)に帰洛した斎には、精力的に古典の講釈を行って、三条西家に伝わる「源氏物語」の学を集大成した「山下水」を著したよ。
元亀3年(1572年)に職を辞するも、その2年後に復帰し、三条西実枝に改名したんだ。
天正7年(1579年)には内大臣となっていた織田信長の後押しによって、三条西実枝は大納言に就任。
この時代には権大納言のみが任じられて、正官の大納言は空席とされるのが慣習だったんだけど三条西実枝はその慣習を破り、23年ぶりに任命されたんだよ。
三条西実澄は最終的に内大臣にまで出世し、戦国時代末期の朝廷政治に深く関わった人物の1人なの。
【三条西家に代々伝わる古今伝授】
三条西実澄は政治家としての顔だけではなく、歌人としての顔を持っていたの。
戦国時代後期、三条西家は実隆、公条、実澄など立て続けに優れた歌人を輩出。
この3人がそろって受け継いだのが「古今伝授」なの。
古今伝授は当時の歌人にとって最大の権威と言われていて、代々、三条西家に伝わる古今和歌集の解釈なんだ。
この古今伝授は一子相伝の秘め事で、歌学にまつわる諸々の教えもついていたの。
この教えは口頭で伝えられただけではなく、奥義については紙に書かれて伝えられたと言われているよ。
三条西実澄は本来ならば息子である三条西公国に受け継がせるつもりだったものの、公国は幼かったため、やむなく弟子の細川藤孝(幽斎玄旨)に初学一葉を与え、古今伝授したの。
細川藤孝といえば光秀の盟友としても知られているよね。
三条西実澄は細川藤孝に古今伝授を伝授した際「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、
責任をもって伝え返すこと」と誓わせたんだ。
細川幽斎はその後、三条西実澄の孫・三条西実条に古今伝授を伝えたよ。
【古今伝授は非常に重要なもので最高権威であった】
三条西家にとって古今伝授はとても重要なもので、その権威は一公卿家にとどまらなかったんだ。
関ケ原の役において、細川藤孝が田辺城で孤立になって危機に陥った時には後水尾天皇が勅命を出して講和させ、藤孝の命を救ったよ。
これは、細川藤孝が古今伝授の唯一の継承者であり、その藤孝を失わせてはならなかったからなんだ。
当時、古今伝授は歌学という文化において最高の権威だったの。
公家社会の中心に成立していた歌学の世界においては権威こそが最も重要視されていて、古今伝授はその頂点にあったんだ。
その権威が失われてしまうことは許されない、そうなれば公家社会全体の権威にもヒビが入ってしまうと考えられていたと言われているよ。