信長から自害を命じられる三淵藤英とは?細川藤孝の兄って本当?
2021年1月10日光秀の重臣・斎藤利三は本能寺の変の計画を事前に知っていた?!利三が本能寺の黒幕だった説もあるって本当?
2021年1月10日
「麒麟がくる」第38話では、美濃から斎藤利三が主君・稲葉一鉄のもとを逃れて、明智光秀のもとへやってきたね。
信長は、斎藤利三を再び稲葉一鉄のもとへ返すように秀吉に言ったものの、光秀はそれに反発。
信長は利三の命の代わりに、敵対勢力が依然として多い丹羽を平定するように言い渡されたよね。
これが天正3年(1575年)夏から開始した丹波攻略の始まりだったんだ。
では秀吉を頼ってやってきた斎藤利三はどんな人物だったんだろう?まとめてみよう。
目次
【斎藤利三とはどんな人物だった?】
斎藤利三(さいとうとしみつ)は明智家においては重臣中の重臣とも呼べる臣下になったよ。
また利三は春日局の父親としても知られているんだ。
同じ美濃国の斎藤姓なので、斎藤道三と血縁関係があるのでは?と考えてしまいがちだけど、この2人には血縁関係はないの。
斎藤利三は元々美濃守護代であった斎藤家の血筋なんだ。
また利三は津田宗及らと茶の湯をたしなむなど、茶人としての教養を兼ね備えていたんだ。
そのあたりも明智光秀と似ているよね。
【元の主君・稲葉一鉄と衝突】
斎藤利三は問題児であったと言われているよ。
元々の主君は稲葉一鉄であったけれど、一鉄とは何らかの理由で衝突があったと言われているの。
稲葉一鉄は頑固者であったと有名だから、それが原因となっている可能性は高いね。
斎藤利三の主君である稲葉一鉄は、美濃三人衆の1人であり美濃国内においては非常に有力な人物であったんだ。
また「頑固一徹」という言葉あるけれど、実はこの「一徹」は稲葉一鉄が由来になっているんだよ。
「頑固一徹」とは非常にかたくなで、一度決めたらあくまでも自分の考えや態度を変えようとしない様のこと。
このような言葉ができるほど、稲葉一鉄は頑固な考え方で、それに対して斎藤利三は同調できない部分があったんだろうね。
また斎藤利三は信長公記を元に編集された「当代記」という資料によると、信長から勘当されていることも記されているんだ。
ドラマの中でも信長は利三に対して、主君である稲葉一鉄のもとへ返るように言っているよね。
ちなみに利三は元亀元年(1570年)以降には光秀の配下となったよ。
【明智光秀は斎藤利三が原因で主君・信長から何度も殴られている?!】
元の主君である稲葉一鉄のもとを去って、明智光秀の臣下となった斎藤利三。
この状況に対して元の主君である稲葉一鉄はもちろん気に入らなかったんだ。
「明智軍記」や「稲葉家譜」の記述を読むと、明智光秀に有能な家臣を奪われたと稲葉一鉄は感じていたことが読み取れるんだよ。
さらに稲葉一鉄の元を去ったのは利三だけではないんだ。
那須直治もまた、斎藤利三を追うように光秀の傘下に加わろうとしたの。
この出来事に対して、一鉄は激怒。
一度ならず二度も明智光秀に家臣を奪われたと感じた稲葉一鉄は、織田信長にこのことを報告。
それを聞いた信長は光秀を呼び出して、那須直治だけは稲葉一鉄の元へ返すように命じたんだよ。
この時、信長は光秀を人前で叱り飛ばして、2~3回殴ったともいわれているんだ。
このことを逆恨みして明智光秀が本能寺の変を起こして信長を討ちとったのでは?と主張する学者もいるほどなんだよ。
【光秀に重用されて丹羽黒井城主になった斎藤利三】
光秀の家臣になってから斎藤利三は明智秀満と並んで筆頭家老として重用されたんだ。
光秀の丹羽平定後は1万石の丹羽黒井城主になり氷上郡の統治にもあたっていたよ。
【斎藤利三の娘・春日局は徳川家光の乳母】
斎藤利三の後室は元の主君である稲葉一鉄の娘だったんだ。
2人の間には、何人か子供が生まれたものの、その中でも有名なのが末娘の福、のちの春日局(かすがのつぼね)だよ。
春日局は母方の親戚・三条西公国に養育され、書道、華道、公道など公家教養を身に着けるんだ。
伯父・稲葉重通の養女となって、稲葉正成の後妻となったよ。
その後、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の徳川家光)の乳母に任命されて、家光の将軍継嗣において大きな功績を残すことに。
また春日局は大奥をまとめるなど権威を振るったよね。
春日局という称号は朝廷から賜ったもので、歴史ファンであれば誰もが1度は聞いたことがあるはず。