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武田信玄VS徳川家康・織田信長の三方ヶ原の戦いは武田軍の圧勝だった?!

 

「麒麟がくる」第36話では武田信玄が登場したよね。
元亀3年松永久秀と三好の一党は河内の国へ進出。

 

幕府と織田の連合軍も河内に向けて出陣したけれど、松永久秀らを取り逃がして討つことはできなかったんだ。
その様子を見ていた武田信玄は、足利義昭と織田信長の足並みが揃っていない今がチャンスとばかりに攻撃をしかけるよ。

ここでは武田信玄VS徳川家康軍・織田援軍との戦いである「三方ヶ原の戦い」についてまとめてみよう。

 

将軍レモン
将軍レモン
武田信玄に対して、徳川家康&織田信長連合軍の戦だよ!

 

【三方ヶ原の戦いはなぜ起きた?】

 

三方ヶ原(みかたがはら)の戦いは元亀4年(1573年)に遠江国敷知郡・三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)で武田信玄率いる武田軍が織田信長&徳川家康の連合軍に圧勝した戦いなんだ。

 

この戦いに勝利した武田信玄は上洛に一歩近づいたものの、元亀4年(1573年)5月に病状悪化してしまい、天下取りの望みがかなわないまま、生涯を閉じてしまうことになるの。

実は武田信玄、織田信長、徳川家康は3氏ともそれぞれが同盟国であり敵対関係ではなかったんだ。
しかし織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭と対立関係になったことで、3氏の関係は悪化。

 

足利義昭は信長の力を借りて将軍になったので、実質的な力は信長が持っていたよね。

織田信長の言いなりになっていた義昭は徐々に不満を募らせていき、元亀2年(1571年)には織田信長包囲網を発布して、信長の代わりに武田信玄を据えることをもくろんでいたんだ。

 

武田信玄は上洛を目指しており、この織田信長包囲網に参加し、織田家との同盟は破棄されたよ。
徳川家康も将軍・義昭から織田信長討伐に加わるように言われるものの、家康はこれを拒否。

信長との同盟を維持することになるんだ。

将軍レモン
将軍レモン
織田信長包囲網の流れで戦になったんだね

 

 

『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』 三方ヶ原の戦いの3枚揃錦絵 PD from wikipedia

 

【総勢30,000もの大軍で侵攻した武田軍】

 

元亀3年(1572年)9月、武田軍は3つの軍に分かれて、遠江国、三河国、美濃国の三国へ同時に侵攻したんだ。
武田軍の本隊は総勢30,000にもなったと言われており、野田城、小山城、二俣城など次々と攻略していくよ。

 

徳川家康軍は、必死に応戦するものの、武田信玄の大軍になす術がなかったんだ。
織田信長は、周辺の敵と対峙していたため、援軍として期待できず、遠江国北部を手中にした武田軍はさらに勢いにのるよ。

 

武田軍の次の標的が本城である浜松城であると予測した徳川家康は、徳川家の自軍8,000に加えて、織田信長の3,000の援軍とともに浜松城に籠城。
しかし、徳川家康の読みは間違っており、武田軍は浜松城をそのまま素通りして西へ向かってしまうんだ。

 

読みを見間違えた徳川家康はプライドを傷つけられ、背後から攻撃しようと、武田軍を追撃。
しかし武田軍30,000に対して、徳川・織田軍はわずか15,000。

 

さらに武田信玄は家康よりも20歳も年上で情報戦にも長けていた武将だったんだ。
すべて家康の正確を知った上の、武田信玄の戦略だったと言われているよ。

 

足軽レモン
足軽レモン
武田軍、数も多いし経験も勝っていて強い!

 

【わずか2時間ほどで勝敗が決まってしまう…】

 

織田・徳川連合軍は、武田軍を三方ヶ原の台地から、祝田の坂を下ったところで背後から襲撃するつもりだったの。
ところが、武田軍は三方ヶ原の台地で、武田八陣形の1つである「魚鱗の陣」で待ち構えていたんだ。

 

織田・徳川軍は石で鶴翼の陣で応戦するものの、軍数で優る武田軍の「高さ」を利用した攻撃には手が出ず苦戦を強いられたんだ。

三方ヶ原の戦いは夕刻にはじまったんだけど、日没までのたった2時間で勝敗が決まってしまったと言われているよ。
それほど織田・徳川軍は大敗してしまったんだ。

 

忍レモン
忍レモン
たった2時間で決着がついたんだね!

 

【命からがら逃げ出した徳川家康】

 

 

この三方ヶ原の戦いで徳川方は2,000人もの兵を亡くし、田中義綱、鳥居四郎左衛門など有力な家臣も命を落としてしまうよ。

徳川家康自身は、戦場を脱出するものの、武田軍の追撃は非常に激しく、家康自身も矢を放ちながら逃げたと伝わっているの。

この時の敗走は、徳川家康の生涯の中でも最も大きなピンチの1つであったと言われるほどなんだ。

家康に近いほんの数人の供回りを従えて、浜松城まで逃げ切ったんだ。

 

しかし浜松城まで逃げ切ったものの、追手が来てしまうの。
そこで家康は、空城計という戦術をとったんだよ。

 

この空城計とは、わざと城門を大きく開いて、かがり火を焚くことで中の様子が外から見えるようにしたの。

追手としてやってきた山県昌景はこの情景を見て罠だと警戒して、そのまま引き上げたそう。
この空城計の戦術によって徳川家康はなんとか窮地を脱したんだ。

 

将軍レモン
将軍レモン
空城計という機転を利かせた戦術で危ないところを乗り切ったんだね〜!
レモン姫
レモン姫
この戦で徳川家康が討たれていたら徳川幕府もなかった時代になってましたわ〜