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2020年11月15日
信長の妹・お市の方を娶り、信長と同盟関係を結んでいながら信長を裏切った人物として知られている「浅井長政」
「麒麟がくる」の中でも重要な登場人物だよね。
ここでは浅井長政がどういう人物だったのかについて、まとめてみよう。
目次
【若くして家督を継いだ浅井長政は知勇に優れた武将だった】
浅井長政は天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として誕生。
1534年生まれの信長よりも一回り近く年下ということになるね。
六角氏の居城である南近江の観音寺城下で生まれたんだ。
この当時、祖父が手に入れた北近江の土地を失い、父・久政は六角氏に臣従。
久政は六角氏との外交に力を入れていて、かろうじて北近江の維持を図っていたんだ。
知勇に優れていた長政に期待を寄せていた家臣たちは、長政に家督を相続させようと久政を強引に隠居させ、長政は浅井家3代目と家督を相続することになるよ。
1560年に六角氏との間で起きた「野良田の戦い」では15歳という若さで勝利。
軍を率いて見事な戦いをした長政に重臣たち心酔したと言われているんだ。
【織田信長との同盟関係】
勢力を増した長政は、天下人と呼ばれる織田信長と同盟を結ぶことになるよ。
尾張から勢力を拡大していった信長は、美濃と斎藤氏を攻略するために浅井長政に同盟を持ち掛けたんだ。
長政にとってもこの同盟の話は有利な内容だったものの、父の盟友・朝倉義景と信長が不仲だったため、浅井家では反対の声も多かったそう。
結果的に長政は信長と同盟を結び、長政は戦国一の美女と謳われた信長の実の妹・お市の方と政略結婚をしたんだ。
信長はこの同盟をたいそう喜び、結婚資金も信長が全額負担したと言われているの。
【浅井長政の裏切りは信長の裏切りによるものだった?!】
金ヶ崎の戦いでは、同盟を結んでいた信長を浅井長政が裏切る形になっているけれど、実は先に裏切りをしたのは信長だったんだ。
元亀元年(1570年)に信長は長政との間に結んでいた契約「朝倉への不戦の誓い」を破って進軍を開始。
朝倉義景は足利義昭が上洛する際の援護要請に応じず、義昭が将軍となった後も2度の上洛命令を拒否したんだ。
これに対して激怒した信長は義景を攻撃することを決意。
義理兄である信長が自分との約束を裏切ったと知った長政は、悩んだ末に朝倉家との同盟を重視して、織田・徳川軍の背後から急激したんだ。
この出来事によって、長政と信長の関係は一気に崩れたよ。
【浅井家は滅亡】
天正元年(1573年)信長による北近江への攻撃が再開され、長政は応戦するものの滅亡に追い込まれてしまうの。
この時の戦いでは、織田軍の兵力は浅井軍の6倍もあったと言われているんだ。
信長の攻撃によって、本拠地である小谷城を包囲されてしまった長政は5,000の軍勢と籠城。
義景の援軍2万の兵力で対抗するものの、結局は越前国へと撤退。
信長は朝倉軍を追撃して壊滅に追い込んでしまうんだ。
長政は、最後まで使者・秀吉による降伏勧告を断れり続けたと言われているよ。
徹底抗戦した長政は最後は自害してこの世を去ることに。
29歳という短い人生に幕を閉じたんだ。
【浅井長政は義理人情に厚い戦国武将だった】
浅井長政は義理人情に厚い戦国武将であったと言われているんだ。
有名なエピソードとしては、小谷城落城の際の妻や子供への対応だよ。
長政はまだ若い妻と小さい3人の子供たちの命を保証するように、信長に引き渡して生かしたと言われているんだ。
信長の妹であるお市の方は、一緒に自刃すると申し出るものの、長政はそれを説得。
お市の方は、残された子供たちを立派に育て上げたんだよ。
お市の方との間の3人の娘たちは、有力武将らに嫁いだんだ。
特に三女・江は徳川将軍家の繁栄にも貢献したんだよ。
また長政は、小谷城落城前に家臣である片桐直貞に対して書状を残したんだ。
この最後の書状には、家臣らが相次いで寝返る中で、最後まで忠義を尽くしてくれたことへの感謝がつづられていたそう。
またこの書状は新しい主君への推薦状にもなっていて、片桐直貞はこの書状によって羽柴家に召し抱えられたと言われているよ。