足利義昭が行った「元服の儀」ってなんなの?元服の儀は当時の成人式だった?
2020年10月8日信長の信頼を勝ち取った堺の豪商で茶人でもある今井宗久は会合衆だった?
2020年10月11日
「麒麟がくる」第26回で、朝倉義景は次期将軍最有力候補・足利義昭の後ろ盾となり上洛することを世間にアピールしていたよね。
しかし朝倉家内の反対勢力をまとめきれず、一行に上洛できないまま。
そこで、足利義昭は織田信長を伴い上洛することを決意するんだ。
では足利義昭はなぜ、織田信長に頼ることができたんだろう?
実は明智光秀と足利義昭は知り合いだったからなんだよ。
ここでは足利義昭と明智光秀の関係性についてまとめてみよう。
目次
【織田信長と足利義昭の仲介役は明智光秀だった】
織田信長に足利義昭を紹介したのは、明智光秀だったと言われているんだ。
実は、明智光秀と足利義昭は顔見知りで、光秀は義昭の元家臣だったんだよ。
光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたよね。
しかし、斎藤家の家督争いに巻き込まれ、明智城が攻められると一族は離散。
光秀は朝倉義景を頼って、そこで10年間ほど居候として過ごしていたと言われているんだ。
そのころ、足利義昭も兄・義輝を暗殺され、京都から逃げ、朝倉義景に救援を求めて逃れてきていたんだよ。
その時に、2人とは知り合いになったんだ。
しかし、義景の態度が定まらず、義昭は織田信長に救援を依頼することに。
織田信長の正室・濃姫と光秀は従兄妹という縁戚関係だったので、光秀が義昭と信長の仲介役になったと言われているの。
義昭が無事に第15代将軍に就任してからは、光秀は京都奉公の職につき、引き続き信長と義昭の連絡役・仲介役となったそう。
この時、明智光秀は幕臣だったと言われているから、光秀は義昭の家臣であったと考えられているんだよ。
信長の家臣になった時期と、義昭の幕臣だった時期が被っているかどうか?というのははっきりとはわかっていないんだ。
けれど、光秀が信長家臣団の一員であったことと、義昭の幕臣であったことは確かな事実なんだよ。
【どうやって光秀は、信長と義昭を仲介したの?】
光秀が仲介役を果たす経緯は「細川家記」に記されているんだ。
光秀は義昭の側近・細川藤孝に対して、「朝倉を頼っていたのでは義昭を京に帰す大功は立てられない、信長は当代の勇将で頼むべき人物である」と説得して、岐阜に使者を送るように勧めたの。
後日、義昭の依頼を受けた光秀が自ら使者となって岐阜へ赴き、義昭の上洛を助けてもらえるように信長へと説いたそう。
光秀は優柔不断で煮え切らない朝倉義景を見限って、信長の非凡な能力と将軍候補としての義昭の将来性にかけたんだ。
永禄11年(1568年)の7月には、義昭は岐阜城下に入って、3ヶ月後信長とともに上洛を果たし、征夷大将軍に任じられたよ。
【明智光秀はいつ幕臣になったの?】
明智光秀が幕臣となった時期を示す史料は残っていて、その記録による永禄6年(1563年)と記載されているんだ。
この記録を見ると、光秀は足軽。
同じ幕臣であった細川藤孝は御供衆で、将軍に近侍する側近だったんだ。
細川藤孝はのちに光秀の部下となるんだけど、もともとは逆の立場でその身分にはかなりの開きがあったことがよく分かるよ。
【光秀は幕府と織田信長に両属していた時期はあるの?】
明智光秀は幕臣であり、織田信長の家臣でもあったことが知られているよね。
定説による、光秀は幕府と信長に同時期に家臣として働いていた、つまり両属していた・・と言われているんだけどそんなことは可能なのかな?
中世武家社会ではよくあるものの、戦国時代では稀であったと言われているんだ。
実際のところ、よく分かっていなくて、きっちり幕府に別れを告げてから信長に仕官したという説もあるんだよ。
信長との対立を極めた足利義昭は京を追われ、最終的に光秀は信長につくことになるよね。
光秀が幕臣をいつ辞めたのかははっきりとわかっていないものの、義昭が京を追放されたのが元亀4年(1573年)のこと。
遅くてもこの時点では、光秀は完全に信長の家臣として行動していたよ。
【光秀は早くから信長へと傾いていた?】
光秀は幕府と信長の両属であったと言われているんだけど、早くから内心は信長よりであったと言われているの。
元亀元年(1570年)に信長が義昭の政治行動を制限する「五カ条の状書」を突き付けた時には、光秀は朝山日乗と共に証人として名を連ねているんだ。
「天下の儀」を信長に任せる事を義昭に誓わせた文書に光秀が署名したということは、つまり光秀が信長を支持する立場を明確にしたといっても過言ではないよね。
さらに翌2年(1571年)の自筆消息では、光秀は義昭に御暇を賜りたい旨を申し出ているの。
この直前に、光秀は信長から近江の坂本城主に任じられていて、織田家中でも別格の扱いを受け始めていた頃だったんだ。
光秀はこの頃には、将来性の乏しい義昭とは決別して、信長の将来性に賭けることを決意したのでは?と言われているよ。