織田信長が初めて鉄砲を使った合戦!織田軍VS今川軍の「村木砦の戦い」とは?
2020年8月19日明智光秀は越前国の朝倉義景に仕えていたの?光秀と朝倉義景の関係性とは?
2020年8月24日
「麒麟がくる」第15回では、斎藤道三こと斎藤利政が、出家して「道三」になった場面が描かれているね。
斎藤道三という名前が有名なんだけど、実はこの「道三」と名乗りだしたのは、出家してからのこと。
つまり晩年のわずかな期間だけだったんだ。
ここでは斎藤道三の出家についてまとめてみよう。
目次
【斎藤道三の出家】
道三の実の娘である帰蝶と、織田信長が結婚したことによって、斎藤氏と織田氏の和睦は成立したよね。
その時点で、斎藤道三による美濃の支配は確定したと言われているんだ。
斎藤氏と織田氏の和睦が成立してから約6年後に、道三は隠居・出家。
天文23年(1554年)2月22日から3月10日の間に、斎藤利政は家督を、息子・斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて「道三」と号して、鷲山城へと隠居したんだ。
道三の出家・隠居は急なことで、突然の引退は家臣たちによって強制的に行われたと言われているんだ。
道三は国内統治者、主君としての資格がないと家臣に判定されてしまったんだよ。
【道三が剃髪したのはなぜ?】
作品の中で、道三が剃髪するシーンが描かれているよね。
道三演じる本木雅弘さんがまるで本当に坊主にしたように見えるこのシーンは、特殊メイクで行われているそう。
劇中で行われた剃髪式は、斎藤利政が出家して「道三」と名乗ることになる区切りの儀式だったんだ。
道三の息子である高政(斎藤義龍)に家督を譲ると決め、自信は隠居することを広く示すために剃髪して、仏門に入ったと言われているよ。
頭を丸めて仏門に入るという行いは、戦国時代よりも前の時代からごく一般的な選択肢だったそう。
世俗を捨てて僧になることで、政治、戦から完全に身を引くという意思表示にもなったんだよ。
武将たちが剃髪して出家するという事情は人によってさまざま。
降伏の意味を示す場合もあれば、より大きな権力を手に入れるためのパフォーマンスとして剃髪式を行う場合もあったんだよ。
【家督を譲った息子・高政(義龍)との対立】
道三が出家後、家督を譲ったのは側室・深芳野との長男である守護代・斎藤高政(義龍)だったの。
しかし、道三は正室・小見の方の実子である次男・孫四郎や三男・喜平次らを溺愛していたんだ。
高政の居城であった稲葉山城には、父・道三と弟の孫四郎、喜平次らがいたんだけど、道三が高政を差し置いて、弟たちに後継者に接するかのように肩入れし始めたの。
道三の肩入れによって、弟の家臣たちは、高政の家臣を軽んじるようにさえなったんだ。
父親の態度を見て、正室の息子である弟の孫四郎には絶対に家督を渡さないと考えた高政は、実弟である孫四郎と喜平次を暗殺。
高政に息子の孫四郎、喜平次を殺された道三は、高政に関して激高するよ。
高政は弘治元年(1555年)に道三に対して挙兵。
国盗りの経緯から、道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌年4月、17500の兵を率いる高政に対して、道三の兵はわずか2500であった。
この時の戦いは、長良川河畔で行われ「長良川の戦い」と言われているよ。
この長良川の戦いで、娘婿の信長が道三軍に対して、援軍を派兵したものの、間に合わず道三は戦死したんだ。
【長良川の戦いでの織田信長の動き】
長良川の戦いが起きたころ、織田氏と斎藤氏は同盟関係を結んでいたんだ。
道三の娘・濃姫(帰蝶)が正室だったため、婚姻関係でもあったため、その関係は強かったと言われているよ。
信長は義父である道三に味方をしたよ。
長良川の戦いでは、道三は戦いを有利に進めていたものの、兵力が圧倒的に少なく、家臣の寝返りなどもあり、徐々に不利な状況に陥ってしまうんだ。
そこで信長は、義父救済のために援軍を派遣。
しかしこの織田軍は、間に合わず道三は討たれてしまったんだ…
道三の死後、義龍(高政)軍は、信長の陣所にも突撃してきたの。
両軍は大良の河原で激突し、信長はその際に道三の死をしったそう。
これによって、退却することになるんだけど、この時、信長は自ら殿(しんがり)を引き受けたんだよ。
全ての兵を退かせて船で川に1人残った信長は、川端まで迫った義龍軍の騎馬を鉄砲で撃退し、追撃を追いのけて無事に帰還したんだ。
道三が亡くなったことによって、信長の領地である尾張国内にも影響が及んだよ。
義龍に呼応した岩倉織田家当主である織田伊勢守信安が清洲近くの村に放火したため、信長も岩倉織田家の領地に入り岩倉付近を焼却したよ。
また、信長の織田弾正忠家も義龍に呼応して、信長の弟である信行を擁して信長から離反しようとしたため、後の家督争いへと発展したと言われているの。