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2020年8月19日
「麒麟がくる」第14回では、織田信長VS今川軍の戦い「村木砦の戦い」が描かれているね。
ここでは信長が初めて鉄砲を使ったとされている「村木砦の戦い」についてまとめてみよう。
目次
【村木砦の戦いとは?その前兆とは?】
村木砦の戦いは天文23年(1554年)1月に尾張国で起きた戦いのこと。
この村木砦の戦いは、織田信長と今川義元の戦いになるんだ。
信長と今川義元の戦いというと、桶狭間の戦いが有名だよね。
けれど、実は桶狭間の戦い以外にも、信長と今川義元の戦いはあって、それが「村木砦の戦い」なんだ。
村木砦の戦いは、信長が初めて鉄砲を使った合戦としても知られているよ。
村木砦の戦いの戦いの前兆は、その前の年。
駿河の今川義元は知多半島にある緒川城を狙い、その北・村木に砦を築き始めたんだ。
緒川城を守っていたのは、水野信元で、のちの徳川家康の伯父にあたる人物なの。
今川勢力と織田勢力の境界に領地を持っていた水野信元だったけれど、家督を継いでからはずっと織田方についていたんだ。
村木の砦を守る今川氏の兵の数は1000人ほど。
この人数では信元も手が出せず、織田信長に助けを求めたそう。
助けを求められた信長は、信元に対して「ちょっと待ってくれ」といったんだ。
信長にとっても緒川城はとても重要で、緒川城が今川氏の手に落ちてしまうことを何としても食い止めたかったんだよ。
そこで信長は、斎藤道三に加勢を求めたんだ。
信長が同盟を組んでいた美濃の斎藤道三に援軍を求めたの。
その要請を受けて、道三から派遣されたのが安藤守就だよ。
1000人の兵を引き連れた安藤守就に那古野城の留守を頼んで、信長はいよいよ出陣を決行したんだ。
実際に、信長が出陣したのは、信元が助けを求めてきてから実に半年も経過していたそう。
そのため、村木砦を守っていた今川兵も油断が出ていたんだ。
【信長が初めて鉄砲を使った合戦だった?】
村木砦の戦いは、信長が初めて鉄砲を使った合戦としても知られているよ。
信長は味方を三手に分けて、村木砦の攻撃を開始したんだ。
東の大手門は水野忠分軍、西の裏門は、織田信光軍、南の大堀は織田信長軍が担当したよ。
信長軍が引き受けた南の大堀は最も攻めにくい場所だったんだけど、信長は狭間を狙って鉄砲を連射させて、猛攻を仕掛けたんだ。
今川軍にとっては初めて聞く鉄砲の発砲音に兵たちは怯え、さらに目に見えないほどの速さで玉が飛び、1人倒れ、また1人と倒れていったそう。
信長には数人の兵士が代わる代わる信長に鉄砲を渡して連射したんだって。
その日の夕刻には、村木砦はついに降参し、信長軍の勝利で決着が付いたんだよ。
けれど、この村木砦の戦いで多くの死者・負傷者が出て、大変だったんだ。
【村木砦の戦いのその後…】
戦いが終わったその日、織田信長は緒川城で宿泊し、帰陣中に今川氏の残党が残る寺本城に拠って、城下を焼き払い、陸路で那古野へ戻ったよ。
那古野に帰ると、城を守っていた斎藤道三の家臣である安藤守就が、信長のあまりに早い帰陣に驚いたそう。
安藤守就は美濃に帰り、主君である斎藤道三に経過をすべて報告。
すると、道三は「すさまじき男、隣には、いや成人にて侯よ(凄まじい男だ、隣には嫌な奴がいるものだ)」と語ったそう。
道三にそう言わせるほど、信長の手腕は抜きんでていたんだね。
織田家にとって大変重要な戦いであった、村木砦の戦いは、もし負けていれば織田家存亡の危機に陥っていたとも言われているよ。
今川氏と織田氏の1回目の戦いは織田軍勝利で終わり、この6年後にあの桶狭間の戦いが起こることになるの。