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2020年8月5日戦国時代の最強武将と呼ばれている武将の一人が、「武田信玄」。
70もの戦いの中で2敗しかしていないという、戦の天才・上杉謙信と長きにわたり互角に戦いつづけたことで知られているね。
一番強い戦国武将は誰?って聞かれたとき、織田信長に豊臣秀吉、徳川家康…名だたる人物の名前が思い浮かぶと思うんだ。
その中でも武田信玄は、武力・統率力・知力とすべてにおいて優れていた総合力の高い武将だと言われているよ。
そんな武田信玄がどんな武将だったのか、生い立ちや上杉謙信との戦い、病気や死因についてまとめていくね♪
目次
【武田信玄はどんな人?生い立ちや結婚は?】
武田信玄が誕生したのは、1521(大永元)年のこと。甲斐の国(現在の山梨県)の石水寺というところで、守護大名・武田信虎の嫡長子として生まれたよ。
嫡長子というのは、正室が産んだ男子の中でもっとも年長の子どものことだよ。
幼名として「勝千代」(またの名を太郎)と名付けられたんだ。
神童と呼ばれるくらい文武両道だったって話だよ!
1533年に上杉朝興の娘と結婚するも、出産時に死んでしまい、後妻として三条の方を正室にしたんだ。その他にも側室が3人いたといわれているよ。
1536年、16歳で元服(成人の儀式)を行い、以降は「晴信」と名乗るようになったんだ。
1541(天文10)年、21歳のときに重臣たちを引き連れて父・信虎を今川氏のもとに追放してしまったんだ。そして、家督を継いで自身が守護に。
【武田信玄は50戦連続無敗!上杉謙信との戦いはどっちが勝った?】
あの織田信長も戦いを避けていたという武田信玄は、一生涯のうちに72戦に挑んで、負けたのはたったの3戦のみ。
31歳から53歳で死ぬまでの間は、50戦連続で無敗だったっていうから凄いや!
さすがは「甲斐の虎」と言わしめた武将だね。
武田信玄の戦いで有名なのは、やっぱり「川中島の戦い」かな。
因縁のライバル関係とされる武田信玄と上杉謙信の第5次にまで及ぶ長期の合戦だったんだ。
信玄が信濃の支配権を巡り争っていた村上義清が、信玄に敗れたのち、謙信に救いの手を求めたのが戦いのきっかけだとされているよ。
1553(天文22)年に第一次川中島の戦いが始まり、1555(弘治元)年に第二次が、1557年に第三次が、1561(永禄4)年に第4次が、1564年に第5次が行われているよ。
大激戦となった川中島の戦い。
結局勝敗がついておらず、両者互いに「自分の勝ち」を主張していたんだって!
勝敗については諸説あるよ。
川中島を手に入れた信玄が勝ったという人もいるね。
でも、より大きな被害を受けたのは信玄だし、もともと領土が目的じゃなかった謙信の勝ちだという人も多くいるみたいだね。
【武田信玄の死因は何?歯が抜ける病気って本当?遺言は「謙信」?】
1573(元亀3)年に現在の静岡県浜松市近辺で起こった「三方ヶ原の戦い」も有名だね。
武田信玄は領土拡大を目的に3つの兵を率いて、遠江国、三河国、美濃国を同時侵攻。
この戦いで、武田信玄は見事、織田信長と徳川家康の連合軍を打ち破ったんだ。
だけど、上洛(京都に向かう)途中に病死。53歳でこの世を去ったと伝えられているよ。
織田信長を倒すまであと一歩のところだったんだ。
<死因や病気は?>
武田信玄の死因は結核、肺炎、肝臓病、胃がん、食道がんなどいろいろな説があるね。
暗殺されたという説もあるけれど、今のところ病死説が有力だよ。
江戸時代の書物『武家事記』では、吐血の症状があったことから肺結核が原因とされている。幼少のころから肺結核を患っていたとも言われているね。
一方で、同じく江戸時代の『甲陽軍艦』では、胃がんが死因だったと書かれているんだ。
死ぬ前に口にできものが出来て、歯が5〜6本一気に抜けたことから、胃がんと推測されたんだって。
ほかにも、寄生虫の感染による「日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)」が本当の死因だという説も出ているよ。
<遺言は?>
信玄は死ぬ間際の遺言として、「わしの死後は謙信を頼れ」と言い残したというんだ。
そして、謙信の方もまた、信玄の死を聞いて「生涯のライバルを亡くした」と嘆き悲しんだといわれているよ。
家臣たちに娯楽を3日間禁じたという逸話も。
ライバル関係だった二人だけど、幾多の戦いを経てお互いの実力を認め合っていたんだね。
また、遺言では「死後3年間、自身の死を隠してほしい」と四男・勝頼にお願いしたといわれているよ。