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2020年7月30日
放送を休止していた大河ドラマ「麒麟がくる」もいよいよ放送再開が決まったね。
放送再開日は8月30日だよ。楽しみだね♪
今回は第13回で登場した織田信長VS清須城の守護代・織田彦五郎の内輪もめについてまとめてみよう。
信長は信秀亡き後、家督を継ぎ、駿河の今川氏や、織田の本家や分家から戦を仕掛けられてしまうんだ。
目次
【織田彦五郎ってどんな人物だったの?織田家の内情とは?】
織田彦五郎は織田信友とも呼ばれていて、尾張織田氏の1人なんだ。
尾張の地で織田氏が頭角をあらわしてきたのは15世紀初めと言われているの。
織田常松という守護代が、主君で守護でもある足利一門の名家・斯波氏を補佐し始めてから、織田氏の名が知られるようになったんだ。
時代の経過とともに、室町幕府が衰退し、応仁の乱がおこり、斯波氏も2つに分裂してしまうの。
そのため織田氏も「織田大和守家」と「織田伊勢守家」の2つに分裂してしまったんだ。
この両家の対立を制したのは大和守家で、彼らが守護代を任されるようになったんだよ。
ところが、斯波氏と織田大和守家の間で戦が勃発してしまい、大和守家の当主・織田達定は討たれてしまい、その跡を織田達勝が継いだんだ。
達勝は、織田彦五郎の前当主に当たる人なんだよ。
達家は長年守護代の座についていたものの、その勢力は徐々に弱まり、その代わりとして台頭してきたのが大和守家の家臣筋であった「織田弾正忠家」なんだ。
この織田弾正忠家は、織田信長の一族のこと。
織田弾正忠家は、土地の横領や津島商人の支配によって力を伸ばし、信長の父・信秀の代には大和守家をしのぐ力があったと言われているよ。
【主君である織田大和守家よりも力を持っていた織田弾正忠家】
天文元年(1532年)に織田信秀と織田達勝の間で戦が勃発するものの、両者は講和に至ったんだ。
信秀はこの時、主君である達勝の顔を立てながら国内の政務を担当したんだよ。
その結果、両者の関係は比較的良好であったんだ。
しかし、この時すでに経済力、軍事力は家臣である信秀が圧倒していて、主君の織田大和守家としては信秀が国外に進出して勢力を強めているのをただ眺めるしかなかったの。
この状況をよく思わない連中がもちろん出てくるわけ。
天文17年(1548年)に織田達勝が城主であった清須城にいる、達勝の家臣たち「清須衆」が信秀の留守を襲撃したの。
争いの結果、両者は翌年和睦を結ぶものの、清須衆と信秀の対立はその後も続くんだ。
その後、達勝は高齢であったこともあり、織田彦五郎が守護代を継承していくんだよ。
【織田彦五郎と信長の直接対決】
織田彦五郎と清須衆らは、織田信長に敵対する構えで、まずは信長の弟・織田信勝を担ぎ出し逆転を狙うんだ。
天文21年(1551年)には清須衆が信長を攻める「萱津の戦い」が勃発。
この戦いでは、清須衆らの勢力は討ちとられ大敗してしまうんだ。
この戦いによって、信長や弾正忠家の力をさらに国内外に知らしめてしまうことになるんだよ。
信長はその後、叔父の織田信光や義父・斎藤道三の環境を強化し、清須衆対策として守護の斯波義統に接近して、着々と地盤を固めていったんだ。
清須衆らは織田信光に近づき協力を打診するものの、信光は誘いにのるどころか信長に清須衆らの計画を打ち明けて、今後の対策を協議したの。
信光はさも誘いをうけたかのようにふるまい、清須城内に入ると、その場で織田彦五郎を切腹に追い込んだんよ。
織田彦五郎はほとんど自らの采配に触れることなく、歴史舞台から姿を消してしまうことになるんだ…