本能寺の変を事前に知っていた光秀の重臣・藤田伝吾は筒井順慶の取り次ぎ役としても活躍した?
2021年2月17日信長に一番槍を突き、森蘭丸を討ち取った安田国継とはどんな人物だった?
2021年2月18日山崎の戦いに敗れた明智光秀は坂本城へ逃亡中に、落ち武者狩りに会うよね。
その時に一緒にいた家臣・溝尾茂朝は、瀕死だった光秀を介錯した人物でもあるんだ。
ここでは「明智五宿老」の1人でもあった溝尾茂朝についてまとめてみよう。
目次
【溝尾茂朝は光秀の古参の家臣であった?】
溝尾茂朝が生まれたの1538年であることは分かっているものの、前半生に関しては謎に包まれているんだ。
史料に登場するのは1568年頃~で、溝尾庄兵衛という名前で光秀の家人になっていたというのが記録されているよ。
光秀が織田信長と足利義昭の仲介役をしていた時には、すでに溝尾茂朝は光秀の家人となっていて古参の家臣なんだ。
溝尾茂朝は若き頃の明智光秀を支えた信頼できる家臣の1人であったことは間違いないね。
【溝尾茂朝にはいくつかの名前がある?!】
溝尾茂朝には同一人物の可能性が高いとみられる名前が「溝尾庄兵衛、三沢秀次」など複数あるんだ。
溝尾茂朝の通称は庄兵衛と言われていて、明智姓の名乗りを許されていたため「明智庄兵衛」という名前も書状で確認できるよ。
また溝尾茂朝の「溝尾」はその当時「みさわ」と読んでいたと言う説もあることから、「三沢秀次」や「三沢秀儀」という人物もまた溝尾茂朝と同一人物であると言われているの。
【越前の代官となる溝尾茂朝】
天正元年(1573年)織田信長は越前の大名であった朝倉義景を攻め滅ぼしたよね。
この頃、明智光秀は信長の家臣となっており、朝倉氏との戦後処理に関しては溝尾茂朝も携わっていたんだ。
朝倉氏が滅亡したことで主不在となった越前を治める人物として、信長は桂田長俊を守護代に任命したよ。
この決定は暫定的なもので、桂田長俊は信長の支配下になって日が浅かったため、信長は目付として溝尾茂朝など3人を付けることにしたんだ。
この時「三沢秀次」の名前で記録されているよ。
溝尾茂朝は、越前代官として越前北ノ庄に留まって政務を遂行したんだ。
そんな時、天正2年(1574年)には桂田長俊が守護代に任命されたことを妬み、富田長繁らにより越前一向一揆が勃発。
桂田長俊は亡き者にされて、溝尾茂朝ら3人の代官の命も狙われたんだ。
結局、溝尾茂朝らは一揆を鎮圧することができず、旧朝倉家家臣の力によって、命からがら京都へ逃げ帰ってきたよ。
【丹波攻めでも活躍】
溝尾茂朝は丹波攻めでも活躍したと言われているの。
天正3年(1575年)、光秀は丹波平定のために軍事活動を開始し、溝尾茂朝もそれに従軍したと伝えられているよ。
天正4年(1576年)、「三沢秀儀」という名前で、丹波攻めの際に国人2人に「万雑公事」という税を免除したという書状が残っているんだ。
また、丹波平定を成し遂げた光秀は、天正10年(1582年)に信長から同盟相手である徳川家康の接待役を命じられるの。
その際に、溝尾茂朝もいたと言われているよ。
【本能寺の変での動向は不明】
天正10年(1582年)6月に起こった本能寺の変の前に、明智光秀は重臣である明智左馬助、明智光忠、斎藤利三、藤田伝吾の4名に謀反の意向を事前に打ち明けているの。
しかし、溝尾茂朝はその中にはいなかったと言われているんだ。
明智五宿老の中で、事前に本能寺襲撃計画を打ち明けられていなかったのは溝尾茂朝だけなんだよ。
なぜ、溝尾茂朝がその中に入っていなかったのか、その理由については分からないんだ。
ただ「信長公記」では、後から加筆したと分かるように「ミ沢昌兵衛(溝尾茂朝のこと)」と名前が加えられているの。
どうして後から追加されたのかはよく分かっていないよ。
溝尾茂朝の本能寺の変での動向はよく分かっておらず、本能寺の変の後は、京都の抑えとして勝竜寺城に留まったよ。
またその後の山崎の戦いでも、溝尾茂朝は従軍しているんだ。
【光秀を介錯したのは溝尾茂朝】
山崎の戦いで、秀吉軍に敗れた明智光秀は、居城・坂本城へ逃げ延びる途中で土民に襲われて負傷したんだ。
その時に、光秀に命じられて介錯したのが、光秀とともにいた溝尾茂朝だったの。
介錯する役目を担うほど、溝尾茂朝は光秀から厚い信頼を得ていたことが分かるね。
深い傷を負った光秀を介錯した溝尾茂朝は、光秀の首を持ち帰ろうとするものの、再び落ち武者狩りに遭う可能性があり、その道中が厳しかったことから持ち帰ることを断念。
遺体を竹藪に埋めて隠したと伝えられているよ。
【溝尾茂朝の最期】
溝尾茂朝の最期に関しては定かではなく、諸説あるんだ。
坂本城で自害したという説や、溝尾茂朝もまた落ち武者狩りに襲われ命を落としたという説もあるよ。