本能寺の変が起こる直前に、光秀の家臣は四国の長宗我部元親と書状のやり取りをしていた?
2021年2月16日明智光秀の盟友・細川藤孝はなぜ本能寺の変を起こした光秀の味方をしなかった?その理由を徹底解説
2021年2月16日「麒麟がくる」最終回では、信長は光秀に「備後にいる足利義昭を殺せ」という究極の命令を突き付けたんだ。
元幕臣である光秀と足利義昭は実は裏では通じており、将軍・足利義昭こそが本能寺の変の黒幕なのでは?という説まであるんだよ。
ここでは光秀と義昭の関係性と、義昭の黒幕説についてまとめてみよう。
目次
【本能寺の変が起こった時点では義昭は征夷大将軍のままだった!】
室町幕府15代将軍である足利義昭は、信長に奉じられて将軍となり、最終的には信長によって京都を追放されているよね。
そのため、追放された時点で室町幕府は事実上滅んだとされているんだ。
しかし、「公卿補任」によると、京を追放されて備後国の鞆に逃げた義昭はその後も征夷大将軍であり続けていたんだ。
備後国・鞆は毛利輝元が支配しており、鞆での義昭は隠居生活を送っていたわけではなかったの。
将軍として、亡命政府である幕府を切り盛りして、京都へ戻れるタイミングを狙っていたと言われているよ。
近畿や東海地方以外の地方では、幕府支持の武将も多かったと言われているんだ。
義昭は公家化した無力な将軍とは違い、戦の上手い下手へともかくとして謀略に長けていたと言われているの。
【四国の戦国大名・長宗我部元親と義昭は親交があった?】
四国の戦国大名である長宗我部元親の正室は、石谷光政の次女なんだ。
この石谷光政とは、明智光秀の重臣・斎藤利三の実兄・石谷頼辰の義父で、石谷家は代々室町将軍家に仕えた奉公衆だったの。
また石谷光政は一説によると13代将軍である足利義輝の庶子(正室以外から生まれた実子)で足利家とは深い関係にあったとも言われているんだ。
信長が四国を制する長宗我部家を征伐しようとしていたけれど、実は長宗我部家と足利義昭は親交があったんだよ。
【光秀と義昭は本能寺の変の後に連絡を取り合っていたのは本当なの?!】
実は明智光秀が本能寺の変を起こした直後に、足利義昭と連絡を取り合っていたことが分かっているの。
天正10年6月12日付の「土橋重治宛 明智光秀書状」には、義昭の上洛を支援する旨を光秀から反信長派の紀州・土橋氏に伝えたことが記されているんだ。
光秀の直筆の書状というのは珍しく、反信長勢力である土橋重治からの書状に対する返信であったと見られているよ。
また、この書状は細かく折りたたまれた痕跡があったため、密書扱いであったことも分かっているんだ。
この書状では、土橋重治が「義昭が京都に戻る際に、協力する約束になっている」と言っていて、それに対して光秀は「協力していただけることありがたいと思っています。しかしそのことは既に承知しています」と返信しているの。
つまり、義昭と光秀の間においては、信長が亡き後、義昭が京都に戻る手筈になっていたことを示しているよ。
【足利義昭黒幕説とは?】
この「土橋重治宛 明智光秀書状」の存在によって、本能寺の変の黒幕は足利義昭だったのでは?と言われるようになったというわけ。
足利義昭黒幕説では、本能寺の変を起こすことで、信長を討ち、再び義昭を上洛させて、長宗我部氏や毛利氏など反信長勢力とともに幕府を再興させようとしていたのでは?と考えられているんだ。
義昭が本能寺の変の黒幕として、積極的に光秀に「信長を討て」と命じたり、働きかけたりしていたかどうかは今となっては闇の中だけど、義昭と光秀が裏でつながっていたということは確かなんだよ。