光秀が家康の饗応役を解任させられたのは魚を腐らせたことが原因なの
2021年2月15日明智光秀と足利義昭は裏でつながっていた?足利義昭が本能寺の変の黒幕であったという説もあるの?
2021年2月16日ついに「麒麟がくる」が最終回を迎えたよ。
衝撃的なラストはSNSでも話題になったんだ。
「麒麟がくる」第44回(最終回)では、光秀と縁の深い四国を統べる長宗我部元親の討伐について描かれているよね。
ここでは長宗我部家についてまとめてみよう。
目次
【元々は信長と長宗我部元親は友好関係だった?なぜ信長は四国征伐しようとしたの?】
信長は四国征伐を行うように光秀に命じているけれど、元々は信長と長宗我部氏は友好関係を築いていたの。
「元親記」によると、長宗我部元親は信長から「四国は切り取り次第、所領としても良い」という内容の朱印状までもらっていたと伝えているんだ。
1580年頃からは明智光秀が長宗我部元親と信長の交渉窓口になったと言われているよ。
それまで友好関係が築かれていた状況が一変するのは、翌1581年のこと。
三好氏を巡る処遇の変化にともない「切り取り次第、所領にしてよい」という方針は撤回され、信長は長宗我部元親に対して阿波の占領地を半分返還するように迫っていったのだ。
しかし、長宗我部元親は信長からのこの申し出を不服としたよ。
朱印状でそのように言っておきながら、急に内容変更して納得できるわけがないよね。
このことがきっかけとなって織田信長は四国征伐を考えるようになっていくんだ。
【明智光秀と土佐・長宗我部元親との関係とは?】
明智光秀は、土佐の長宗我部元親の取次を担当していただけではなく、家臣である斎藤利三を通して強い関係を持っていたと言われているんだ。
光秀の重臣である斎藤利三の実兄・石谷頼辰は、当初室町幕府の奉公衆であったものの、将軍・足利義昭が京都から追放されて以降は光秀に仕えるようになったの。
また頼辰の義父である光政は長宗我部元親に仕えていて、次女を元親の正室として嫁がせているんだ。
つまり長宗我部元親と石谷頼辰、斎藤利三は縁戚関係であったんだよ。
親しくしていた長宗我部のいる四国征伐は光秀にとっては何としても避けたい状況であったし、信長の言動に大きなストレスを抱えていたことは間違いないだろうね。
この一件が本能寺の変を起こす引き金になった可能性も多いに考えられるんだよ。
【本能寺の変の前に光秀と長宗我部氏は書状のやりとりをしている?】
実は本能寺の変の直前に、四国の長宗我部元親が明智光秀の重臣・斎藤利三と書状のやり取りをしているんだ。
この書状に関しては戦国時代の古文書類「石谷家文書」の中から見つかったんだよ。
発見された書状は2つ。
1つ目は本能寺の変が起きる直前である点正10年(1582年)1月11日に書かれたとされる斎藤利三書状だよ。
この書状は、斎藤利三が実兄・石谷頼辰の義父・石谷光政に出したものなんだ。
利三が書いた書状は現在数通しか残されておらず、とても貴重なんだよ。
天正3年(1575年)頃、信長は長宗我部元親に対して、四国内は元親の切り取り次第で所領を得てよいと許可していたものの、天正9年になると土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達してきたんだ。
しかし元親はそれを認めなかったの。
それを諫めるために、利三が石谷頼辰を使者として長宗我部元親の元へ派遣する旨を伝えているのがこの書状なの。
さらに、この書状では長宗我部元親の軽挙を抑えるように依頼しており、この文面からも信長と長宗我部元親との対立状況がよく分かるんだよ。
2通目に出した書状は、天正10年(1582年)5月21日のこと。
これは長宗我部元親が斎藤利三に宛てた書状になるんだ。
1月に書状を出した時点では、信長の命令に拒絶していたものの、5月の書状では信長の命令(朱印状)に従う旨が書かれていたんだ。
この書状で書かれていた内容は以下の通りだよ。
・阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの地からは撤退しているものの、海部・大西城は土佐国の入り口となる場所だからこのまま所持したい旨
・甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたいと考えている旨
・何事も頼辰へ相談してほしいという旨
しかし信長は5月の段階で四国への出兵を命じているよね。
戦闘を回避しようとしていた長宗我部元親と、四国征伐を考えていた信長では違いが明らかになっているんだ。
この2通の書状のやり取りがあったことで、本能寺の変の直前に斎藤利三と長宗我部元親の考えや行動がはっきりと分かるようになったよ。