元の主君から逃げて明智光秀の重臣となった斎藤利三とは?光秀が最も信頼していた臣下の1人だったって本当?
2021年1月10日信長の命令によって行われた光秀の丹波平定は5年の歳月がかかった?!丹波平定とはどんな出来事だった?
2021年1月10日
「麒麟がくる」第38話で、美濃国から主君・稲葉一鉄の元を逃れ家臣にしてほしいと光秀のもとへやってきた斎藤利三。
斎藤利三は明智光秀の家臣になると最期まで主君・光秀に付き従ったんだ。
実はこの斎藤利三は本能寺の変にも関与しているんだよ。
ここでは斎藤利三と本能寺の変についてまとめてみよう。
目次
【光秀は斎藤利三らに本能寺の変の討ち入りを打ち明けていた?!】
明智光秀によって斎藤利三は本当に信頼できる忠臣であったんだ。
明智秀満とともに光秀が絶大な信頼を寄せていた斎藤利三は、光秀の明智家を守りたいという意思や土岐家再興に対する情熱についてもよく知っていたとされているよ。
実は明智光秀は本能寺の変の直前に、5人の信頼できる家臣だけ集めて本能寺の討ち入り計画について最初に打ち明けていた…とされているんだ。
その5人の中にもちろん斎藤利三も含まれていたんだよ。
利三の他に、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠がいたそう。
ただ実際のところ、光秀を含めて家臣5人全員が本能寺の変で戦死や処刑されているため、後世に書かれた軍記物ではっきりと書かれているかは不明なんだ。
【斎藤利三と明智秀満は本能寺の討ち入り計画に反対していた?!】
実は家臣の中でも斎藤利三と明智秀満は、主君・明智光秀の本能寺の変の計画に最後まで反対していたと言われているの。
天正10年(1582年)に光秀は本能寺の討ち入り計画を一部の重臣に打ち明けたよね。
この時、利三はその計画の無謀さから明智秀満とともに反対。
しかし、主君の命令に逆らうことはできず、結局本能寺の討ち入りは決行されてしまうよ。
また、光秀への恩義に報いる気持ちも強かったため、斎藤利三は首謀者の1人として本能寺の討ち入りに参加せざるを得なかったんだ。
【斎藤利三の最後】
本能寺の変を起こした後、斎藤利三は中国大返しによって引き返してきた羽柴秀吉と山崎の戦いで激突。
斎藤利三は先鋒として活躍するものの、最終的には秀吉軍に破れて逃走。
暑さで衰弱していた利三は、秀吉軍からの執拗な捜索によって近江堅田で捕縛されてしまうんだ。
そして秀吉の命令によって六条河原で斬首されてしまい、その一生を遂げたよ。
【本能寺の変は斎藤利三が起こしたという陰謀説がある?!】
本能寺の変は明智光秀が首謀者であると言われているけれど、その真相はいまだ謎が多いんだ。
実は斎藤利三が本能寺の変の黒幕だったのでは?という説もあるんだよ。
ではなぜ、斎藤利三が本能寺の変の黒幕であると言われるんだろう?その理由をまとめてみよう。
<織田信長から切腹を命じられ恨みで本能寺の変を起こした説>
斎藤利三の後を追って、美濃国から那須直治も逃げてきたよね。
この出来事は、利三の口利きによって稲葉家から光秀が引き抜いたとも言われているんだ。
主君である稲葉一鉄はこれを不服として信長に対して抗議。
その意見を聞き入れた信長は、明智光秀に対して那須直治を稲葉家へ返して、斎藤利三を切腹させるように命じるんだ。
しかし、光秀はこの命令を拒否。
それに激怒した信長から殴られるなお折檻を受けたと言われているよ。
結局、利三の切腹に関しては周囲のとりなしによって撤回されたものの、この件をきっかけに利三は信長に不服を感じて、主君・光秀に本能寺の討ち入り計画を働きかけたのでは?と考えられているんだ。
<同盟関係を結んでいた長宗我部氏との関係を破綻された信長への怒り説>
明智光秀は織田氏と同盟関係だった四国・長宗我部氏との取次役を務めていたんだ。
光秀の家臣であった利三もまた、長宗我部元親と婚戚関係にあるなど深い関係だったの。
しかし石山本願寺が織田軍に降伏したことによって、その背面に位置していた長宗我部氏の価値がなくなり、信長は同盟関係を結んでいたのにも関わらず四国に勢力を伸ばそうと動き出してしまうんだ。
利三はこの信長の四国への勢力拡大の動きを阻止しようとしていたのでは?と言われているよ。
長宗我部氏に関しては、織田信長の裏切りには反発するものの、史料によると降伏を決意していたことが分かっているんだ。
光秀が行ったという説では、斎藤利三は本能寺の変の計画については反対していたとされているし、実際のところはどれが正しい説なのかは分かっていないんだ。