武田信玄VS徳川家康・織田信長の三方ヶ原の戦いは武田軍の圧勝だった?!
2020年12月28日武田信玄は病死だった?信玄の死を3年間隠し続けたって本当なの?
2020年12月28日
甲斐の戦国大名といえば武田信玄だよね。
「麒麟がくる」第36話にも登場した武田信玄の軍事力は戦国最強とも言われていたんだ。
武田信玄は覚恕や足利義昭と通じ、織田信長包囲網のメンバーであり、光秀と信長を追いつめていくよ。
ここでは武田信玄についてまとめてみよう。
目次
【武田信玄とはどんな人物だった?】
「麒麟がくる」の劇中では石橋凌さんが演じる武田信玄はいったいどんな人物だったんだろう?
武田信玄は風林火山を旗印に掲げて、信頼で築き上げてきた強固な騎馬軍団を武器に戦った戦国武将であり、無類の戦上手としてその中を全国的にとどろかせていたんだ。
ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスは「織田信長が最も煩わされ、常に恐れた人物の1人」とも言っているの。
武田信玄は信頼による結束を重視した武将であり、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉を残しているよ。
これは信玄の「信頼によって結びついた人は、強固に作り上げられた城にも匹敵する」という思想を表しているの。
実際に武田信玄は、城を造ることなく居館を構えただけだったの。
信頼関係で結ばれた軍団がいたからこそ、城を作る必要もなかったんだ。
【武田信玄は内政に尽力していた】
信玄は戦だけではなく、内政にも尽力していた人物なんだ。
信玄が居住していた跡地は現在「武田神社」として整備されていて、武田信玄が御祭神としてまつられているの。
これは領民から慕われていた証ともいえるよね。
実は武田信玄は戦がうまいだけではなく、農業や商業の振興、治水工事など領国経営にも尽力した姿が伝えられているんだ。
特に武田信玄は様々な工夫を凝らして、河川の氾濫を治めて、治水に成功するよ。
治水に成功するということは、同時に米が増産されることを意味しているので、国を豊かにすることにつながるのです。
【武田信玄と織田信長の関係性】
甲斐の国(現在の山梨県)を本拠地に、関東一帯まで勢力を誇った武田信玄は、緻密な領地経営力と戦国最強と呼ばれていた騎馬軍団さらには用意周到な戦略が武器だったんだ。
また内外に全く隙を見せない堅実さを極めた武将としても知られていたよ。
それに対して織田信長は大胆で斬新な発想を持っており、次々とすぐに行動に移す天才型の人物だよ。
その知略と勢いで、天下統一まであともう一歩のところまで行き着いたのは誰もが知るところだよね。
武田信玄と織田信長は性格的には全く正反対のタイプであったものの、お互いに注目しながら、長い間友好的な関係を築いてきたんだ。
しかし最終的には敵対してしまう2人なんだけど、その理由も延暦寺・覚恕や将軍・足利義昭から武田家への救援要請を受けたからなの。
つまり外からの働きかけによって、武田信玄と織田信長の関係は悪化してしまうんだよ。
しかし対決を避け続けた武田信玄と織田信長は、結局一度も直接決戦することはなかったんだ。
2人の争いに決着がついたのは、武田信玄の死後だったんだよ。
【武田信玄と上杉謙信の関係とは?良きライバルだった?】
多くの戦国武将の中でも戦国最強と呼ばれていた武田信玄。
この武田信玄の好敵手として称されているのが、越前大名だった上杉謙信だったんだ。
上杉謙信もまた信玄と同じく戦が非常に上手で、「越後の虎」「軍神」と呼ばれることもあったそう。
武田信玄と上杉謙信は互いの領地に挟まれた信濃をめぐる「川中島の戦い」を1553年~1564年の11年間で、なんと5回も戦っているんだ。
武田信玄と上杉謙信は小競り合いはあったものの、激しい衝突はなかったと言われていて、第5次川中島の戦いでは、両者はにらみ合いをするだけで衝突すらしなかった…と言われているの。