織田信長と越前・朝倉義景の激戦とは?
2020年11月11日挟撃で大ピンチ!織田信長にとって最大の危機と言われる「金ヶ崎の退き口」とは? その1
2020年11月13日
朝倉義景を討つために越前を出兵した織田信長は、突如背後にいた朝倉長政に裏切られて命からがら京都から岐阜へ帰還。
その後すぐに軍勢を整えて、近江・姉川で浅井・朝倉連合軍と戦ったのが「姉川の戦い」だよね。
ここでは姉川の戦いについて詳しくまとめてみよう。
目次
【姉川の戦いとは?】
姉川の戦いは元亀元年(1570年)の野戦のこと。
兵数は織田軍23,000と徳川6,000軍に対して、浅井軍8,000と朝倉軍10,000~15,000程度であったと言われているよ。
姉川の戦い後も、朝倉氏が滅亡する1573年までの間、志賀の陣(宇佐山城の戦い)や、比叡山焼き討ち、本願寺の蜂起、長島一向一揆など
織田信長VS朝倉義景に関連する戦闘は山ほどあったんだ。
数えればきりがないほど、勢力争いを続けていたんだよ。
姉川の戦いの詳細ははっきり分かっていないことが多いんだけど、その中で分かっているのが、
・朝倉家に徳川家が対峙して、浅井家を信長の馬廻り衆と西美濃三人衆が戦った
・朝倉家の猛将である真柄直隆、浅井家の猛将・遠藤直経など多数の武将が戦死した
・織田信長が撤退する浅井・朝倉家を追撃して、小谷城下を放火した
このことに関しては確かにあったと言われているんだ。
姉川の戦いで浅井・朝倉軍は負けたと言われているんだけど、その後も何年にも渡って軍事行動をしていることから小規模な戦いで負けていなかったのでは?とも言われているの。
この姉川の戦い、野戦であって、決戦が目的ではなかっとも言われているんだよ。
他にも織田家が浅井と戦わなければいけない理由はいくつかあったと言われているの。
それは岐阜城と二条城を結ぶルートを確保することだったんだ。
岐阜城と二条城を結ぶルートは素早い進軍ができ、安全な軍用道路ではなくてはダメだったの。
このルートを確保するために、戦いが勃発したと言われているよ。
【なぜ織田信長は浅井長政に裏切られたの?】
姉川の戦いが勃発した理由は、織田信長に従っていた浅井長政が信長を裏切ったからだよね。
ではなぜ、浅井長政は信長を裏切ったんだろう?
実は浅井氏は国衆の連合体であり、長政1人の意思だけではなどうにもならず、強固な主君体制を敷いていた信長は判断を見誤ったとも言われているんだ。
浅井長政は織田信長とも朝倉義景とも同盟関係にあって、この2人が争っている以上どちらかに加担するのか決断を迫られていたんだ。
浅井長政は織田信長の実力を見抜いて織田側に味方することを考えるものの、父・浅井久政がこれに反対。
浅井氏を助けてくれた朝倉氏に加担しようとするんだ。
結局、父に押し切られる形で長政は義景を援護することになるの。
そうして、織田信長が天筒山・金ヶ崎の2城を落として一乗谷へ向かうおうとしていた矢先、浅井氏が六角氏と共謀して突如として挙兵したんだ。
【姉川の戦いの後…】
姉川の戦いで勝った織田・徳川軍は、その後も浅井氏の本城である小谷城を攻撃するものの、鉄壁の守備を誇る小谷城までは攻略することができなかったんだ。
姉川の戦いに勝った織田信長は、横山城だけを奪って徹底。
戦いには、勝ったものの朝倉・浅井氏を完全に滅ぼすことはできなかったの。
姉川の戦い後、なんとか生き残った浅井・朝倉氏は、単独で戦っても信長軍には勝てないことを痛感。
織田に反対するたくさんの人達と組んで戦う必要があると気づいたんだ。
そこで、体制を整えて、織田信長を嫌う勢力と組んで信長に対抗していくんだよ。
それが「織田信長包囲網」と言われるものなんだ。
ちなみに主な反織田勢力としては、六角氏、三好三人衆、比叡山・延暦寺、本願寺・一向宗勢力などがいたよ。