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2020年9月24日第15代将軍・足利義昭と信長の関係性とは?信長包囲網ってどんな出来事だったの? その1
2020年9月29日
大河ドラマ「麒麟がくる」の第24回では、三好義継や松永久通がクーデターを起こし、将軍・足利好輝を殺害する場面が放送されたね。
ここでは将軍・足利義輝を討ち取った「永禄の変」についてまとめてみよう。
目次
【永禄の変とは?どんな出来事だった?】
永禄の変は、永禄8年(1565年)5月19日に、室町幕府13代将軍である足利義輝が三好義継、松永久通らの軍勢によって、京都の二条御所で襲撃され、殺害された事件のことだよ。
松永久秀がこの事件を起こしたのでは?と主導者の1人として記述されることが多いんだけど、実際にこの事件に参加していたのは息子の久通なんだ。
久秀はその当日には大和国にいたから直接はこの事件に関わっていないと言われているよ。
義輝ら将軍側は、三好氏を以前から警戒しており、数年前から二条御所の四方の堀・土塁などを堅固にする工事を行っていたんだ。
さらに将軍・義輝は事件前日の永禄8年5月18日には難を避けようといったん御所を脱出していると、ルイス・フロイスの「日本史」には記述されているよ。
けれど、義輝の近臣は、「将軍の権威を失墜させるだけだ」と脱出を反対。
義輝とともに討死する覚悟で説得をおこなったため、義輝もしぶしぶ御所に戻ったと言われているの。
そして、5月19日。
御所の門扉の改修が済む前に包囲したかった、三好・松永らは清水寺参詣を名目に約1万人の軍勢を集結。
御所に押し寄せて、将軍に要求ありと偽って取次を求めたんだ。
奉公衆が訴状の取次に往復している間に、三好勢の鉄砲衆たちは四方の門から侵入して攻撃をスタートさせるの。
将軍方の応戦は激しく、将軍側の十数名が三好勢数十人を討ち取ったと言われているよ。
その間に殿中では義輝が近臣たち1人1人と最期の盃を笠氏、主従30名ほどで討って出たんだ。
剣豪・塚原卜伝に兵法を学んだ義輝も自ら薙刀を振るって、その後、刀に持ち替えて奮戦したと言われているよ。
しかし、昼前までには主従全員が討死・自害したんだ。
【剣豪将軍・義輝の最後】
将軍・足利義輝は剣豪として知られている塚原卜伝の直弟子であったと言われているよ。
宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」にも、義輝が薙刀や刀で応戦して、人々を驚かせたという記録があるんだ。
剣豪であった将軍・義輝の最期となった「永禄の変」では、義輝が伝家の宝刀を持って、刃こぼれする度に取り換えながら30人余りを斬ったという武勇伝が残っているの。
実際のところはどうかは分からないけれど、義輝が最期まで応戦したことはよく分かるよね。
【なぜ将軍を殺害することになった?その動機とは?】
なぜ永禄の変は起きたのだろう?なぜ将軍を殺害するということになったのだろう?
三好義継ら三好氏が義輝を殺害した動機、最初から義輝を殺害するつもりで御所を襲撃したのか?の真相は分かっていないんだ。
ただその理由として足利義維の子である義栄(よしひで)を将軍の座に据えるためだったのでは?と言われているの。
義継らは、義輝殺害後、義栄を擁立して、永禄11年に将軍職に就任させるんだ。
義輝は永禄元年以降は三好氏とは協調関係にあったんだ。
けれど、義輝としては将軍の権力復活を目指していたの。
義輝と長い間、絶妙な力加減で付き合っていた天下人・三好長慶はすでに亡くなっていて、若くして長慶の跡を継いだ義継にとっては義輝はとっつきにくい存在だったのでは?とも言われているよ。
18日に上洛して、その翌日には御所を取り囲んだ義継は、将軍に本当に訴えたいことがあったのか、はたまた最初から義輝を殺すつもりだったのか、成り行きでそうなってしまったのかは今では知る由がないんだ。
【永禄の変後も将軍家の分裂は続く】
将軍・義輝の殺害は前代未聞の事件となったよ。
三好長慶は義輝と長きにわたって対立していたものの、義輝が和睦を破っても、刺客を送ってきても義輝の命を狙うことはなかったんだ。
長慶は家格秩序を重んじる人物で、将軍と諸大名との関係をよく見ながら絶妙なバランスで関係を構築していたの。
けれど義継には長慶のような慎重さはなかったよう。
「将軍を立てよう」という気はさらさらなかったようで、永禄の変の後はあちこちで反発を招いてしまうんだよ。