桶狭間の戦い後、将軍・足利義輝を差し置いて実権を握っていた三好長慶とはどんな人物だった?
2020年9月24日室町幕府13代将軍・足利義輝が殺される「永禄の変」とはどんな事件だったの?
2020年9月29日前回に引き続き、「麒麟がくる」第22回で政権の実権を握った三好長慶についてまとめてみるよ。
畿内や四国の掌握していた三好長慶だったけれど、実は晩年は悲しい最後を迎えることになるんだ。
ここでは、三好長慶の行く末についてまとめてみるね。
目次
【兄弟の仲が良かった】
三好長慶には3人の弟たちがいたんだけど、兄弟の仲がすこぶるよかったそう。
戦国時代においては、兄弟間でおいても仲が悪いことが当たり前だったから、これはとても珍しいことなんだよ。
3人の弟たちについて簡単にまとめてみよう。
・三好実休
三好長慶の片腕とも言われていたのが、三好実休。
地元阿波など四国方面での政治・軍事をすべて任されていたトップであり、茶道にも系統していた文化人という側面も持ち合わせていたんだ。
また三好実休は日本史上初の鉄砲により逝去した武将としても知られているんだよ。
実休は流れ弾が当たって37歳という若さで亡くなってしまうんだ。
・安宅冬康
安宅冬康は心優しい性格だったと言われていて、殺戮を繰り返し傲慢になっていた兄・長慶に鈴虫を贈ったという伝えが残っているんだ。
「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる、まして人間はなおさらである」と、兄の無用な殺生を誡めたという逸話も残っているの。
実は、安宅冬康は兄・長慶に謀反を疑われて自害する最期となってしまうんだ。
・十河一存
通称「鬼十河」「夜叉十河」と言われて恐れられるほど戦場で活躍したいたそう。
傷口に塩を塗り込んで消毒して、そのまま戦闘に復帰したという逸話もあるんだって。
最期は、病気療養のために有馬温泉へ向かう途中、落馬して逝去してしまったんだ。
【近親の死が相次ぎ、三好政権が崩れ出す】
三好実休など兄弟衆の活躍によって、河内を支配した三好長慶は、松永久秀の働きで大和を平定、長慶政権として最大の版図を築き上げたんだ。
しかし、永禄4年(1561年)に長慶政権を軍事的に支えていた弟・十河一存が落馬によって死去。
この出来事は、長慶にとって痛恨の極みとなったよ。
十存の死によって、六角氏や畠山氏は、細川晴元を担ぎ出して、長慶に敵対する構えを見せ始めるようになるんだ。
翌年、三好実休と畠山高政らの軍政が久米田の戦いで激突。
三好方優勢で進むものの、鉄砲の流れ弾があたり、総大将である弟・実休が戦死してしまうんだよ。
トップを失った三好軍は、桶狭間の戦いのごとく、総崩れとなって結果として大敗してしまうんだ。
三好長慶は、最愛の弟・実休と十河一存を失い、途方に暮れてしまうよ。
そんな状況になって、各地では反三好勢力がどんどんと活気づいてしまうんだ。
さらに永禄6年には長慶が期待していた嫡男の三好義興が病死し、長慶と重臣・松永久秀はひどく落ち込んだそう。
【相次ぐ弟たちの死によってうつ病になってしまう…】
三好長慶は弟たちなど相次ぐ周囲の人物の死によって精神的に追い詰められてしまうんだ。
1564年には、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟の安宅冬康に謀反の疑いをかけて自害させてしまうんだ。
巨大な権力を手にした長慶は人のことを疑うようになっていたのかもしれないね。
最愛の弟を自害させてしまったことがさらなる要因となって、症状はますます悪化。
精神は崩壊してしまうんだ。
うつ病を患った三好長慶は、弟・十河一存の子供である三好義継に家督を相続させると飯盛山城で42歳の若さで病死したよ。
【三好長慶は優しすぎる性格だった?】
三好長慶は武将でありながら優しすぎる性格だったのでは?と言われているんだ。
父の仇を攻めた時には、攻めれば勝てるものを自分の身内ということから躊躇してしまい、攻撃命令を出せずにいたそう。
結局、その相手に対しても弟が突撃して攻め滅ぼしたんだよ。
また父の仇で主君でもある細川晴元に関しても追い詰めても殺すことができなかったんだ。
対立していた元主君との争いに、完全に勝てる戦いだったにも関わらず和睦の道を模索していたんだって。
結局、和睦が成立して、弟に警護させて京まで送り届けたと言われているんだ。
このように三好長慶にいはお人好な、人間らしいエピソードがたくさんあるんだ。