光秀は戦国武将の中でもイケメンだったって本当?!
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2020年8月19日
光秀と言えばどうしても「本能寺の変」の印象が強いため、反逆者という悪いイメージが先行してしまうよね。
でも光秀が行ったことは、本能寺の変だけではないんだ。
各地を名君として統治して、的を得た領国経営を行い、領民に愛され続けた光秀の知られざる功績をまとめてみよう。
目次
【丹羽攻略に着手した統治者としての光秀の手腕】
亀山、丹羽の民衆に敬われ、領国経営に努めた光秀は、天正5年(1577年)に丹羽攻略の拠点とするために丹羽亀山城を築城。
光秀は近隣の村から人々を呼び寄せて、城下町を形成したんだ。
天正8年に丹羽国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手するよ。
その当時、どこの土地においても「国人衆」という中間的支配者が必ず存在していたんだ。
領民は国人衆によって支配され、国人衆は領主によって支配されるという形が、鎌倉時代からずっと続いていたの。
光秀はこの古い体制をすべて排除して、その土地のことをよく知っている国人衆たちを家臣として取り立てて、代官に任用したんだ。
無駄を省いて、人材をうまく活用しているそのやり方は、光秀の政治手腕がうかがえるよね。
光秀の善政を語り継いだ丹羽の領民たちは「御霊様」となった光秀のために大祭をおこなっていたそう。
どれほど光秀が慕われていたかが良く分かるよね。
現在でも福知山では「福知山御霊大祭」亀山では「亀山光秀まつり」など光秀関連のイベントが開催されているよ。
【領民たちの心をつかんだ光秀の人材抜擢術とは?】
明智光秀の軍団は、旧幕臣衆を家臣団に組み込んだことで、織田信長軍の中でも最も大きい軍団へと成長したんだ。
光秀は、出身や家柄などに関係なく、能力主義を貫き、ポストを決めていったんだよ。
このあたりのやり方は主君である織田信長と似ているよね。
けれど信長と光秀では違う点も多くあったんだ。
大きな違いは「家臣の心情を深く理解したこと」だったの。
信長軍の中では途中入社組であった光秀は、自分を全力でサポートしてくれる家来に深く感謝し、家臣の心情をよく理解したんだ。
そして最後まで裏切らず家臣を大切にしたそう。
光秀の家臣に対する労いの証拠はいくつも残っているんだ。
例えば、合戦で討ち死にした家臣に対しては列記し、近江国の西教寺に供養米を寄進したそう。
また合戦で負傷した家臣に対して見舞いの書状を書いたそうで、その書状はいくつも残っているんだ。
このことからも家来をしっかりと想っていた光秀の姿が伝わってくるね。
【徹底した管理システムを確立した光秀】
光秀は「家中軍法」を制定したんだ。
この家中軍法は、本能寺の変の1年前に福知山城で制定したもの。
1条から7条までは、軍団の秩序と規律に関して記してあり、8条から18条までは100石単位の禄高に応じた軍役の基準を明確に明記してあるの。
織田家中には軍法は存在していなかったため、光秀の家中軍法に習って他の武将も家中軍法を作ったと言われているよ。
【領民目線で統治する平山城にこだわった光秀】
光秀が築いた福知山城、坂本城、亀山城などは全て、領民の暮らしと一体になって、領民の目線で統治する平山城だったんだ。
戦国時代には、戦闘を第一に考えて山城を築城することが一般的だったから、光秀の築城方法はとても特徴的だったの。
光秀は、城をただの戦の砦と考えるのではなくて、政務の館として考えていて、城下町亀山の都市計画も計算された町づくりだったそう。
このような光秀の考えた方が、多くの領民から愛され支持される理由になっているんだろうね。