天下布武とは?織田信長の天下布武に込めた意味や思い
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2020年5月20日
秀吉の政策として有名なのが「太閤検地」だよね。
実は織田信長も秀吉が太閤検地を行うより前に検地を行っているんだよ。
信長が行った検地は「指出検地」と呼ばれているんだ。
では、指出検地のような政策だったのかな?
ここでは指出検地の特徴と、指出検地と太閤検地は何が違うのか?についても分かりやすく解説してみよう。
目次
【指出検地ってなに?】
指出検地は戦国時代に行われた検地方法の1つで、織田信長がおこなったんだよ。
指出検地は家臣や自社・村落などに土地の面積や収穫量、作作などの明細を報告させる検地方式だよ。
各耕地を一筆ごとに記載したものから,面積や収納高の合計だけのものまであったそう。
この指出検地では、領主が直接奉公を派遣して、土地面積、その収穫量などを調査する丈量ではなかったんだ。
つまり、大名が直接立ち入り調査をすることはなく、基準も不統一で細部まで正確な把握は困難だったから、きちんとした調査ではなかったとも言われているよ。
ちなみに、信長だけではなく、今川氏、後北条氏、武田氏、上杉氏、朝倉氏、毛利氏らの戦国諸大名の検地も指出検地の方法が採用されていたんだ。
【織田信長が行った指出検地】
信長は1568年(永禄11年)から本能寺の変で倒れる1582年(天正10年)まで、畿内やその周辺地域の指出検地を行ったよ。
この指出検地を行った目的は、征服地の大名たちに土地を与えて軍役を課す主従関係を確立するためだったの。
織田信長行った指出検地として有名なのが、1580年(天正8年)に、滝川一益、惟任長秀を大和に派遣して、興福寺領など国内の寺社本所領に指出を強制的に提出させたんだ。
【信長の指出検地と、秀吉の太閤検地は何が違う?】
同じ検地でも信長が行った指出検地と、秀吉の行った太閤検地は違うんだ。
ここでは、指出検地と太閤検地の違いをまとめてみるね。
信長が行った指出検地は、征服地の寺社や村などから土地の調査報告書を提出させるという形だったんだよ。
土地面積や年貢高、耕作者などを記録した調査報告書を「指出(さしだし)」と呼んでいたから、指出検地と呼ばれているんだ。
大名たちとの主従関係の確立を急ぐあまり、指出検地は十分な内容検討をされずに実施されてしまった指出検地には様々な欠陥があったと言われているよ。
まず、指出検地は自己申告制だったから、提出者が年貢高をごまかすなど虚偽報告する可能性があったんだ。
実際に、虚偽報告をするケースが多かったそう。
また、太閤検地のように石高制という統一基準のもとで実施されていなかったため、実際の年貢高や面積などが同じ基準で測定されていないケースがたくさんあったの。
さらに、報告書の形式もバラバラで、それぞれの報告書の記載内容に精粗があったんだ。
複雑な土地所有関係も整理されていなかったと言われているよ。
一方、太閤検地は、指出検地のよくなかった部分を改正し優れた検地方法と言えるよ。
まず、太閤検地では指出検地の自己申告制ではなく、検地奉行を現地に派遣する方式にしたんだ。
一筆ごとに土地の品等、面積、年貢高、耕作者を詳細に調べるようになるよ。
また、太閤検地では単位が統一されたんだ。
測量方法を細かく設定し、測量単位を統一することで正確な測量ができるようになったと言われているよ。
指出検地では、大きさや体積が違う升が使われていたため、正確な申告は不可能だったんだ。
さらに、秀吉の太閤検地によっては石高制が確立したよ。
秀吉が行った太閤検地は全国統一の基準で行われたから、米の生産高が正確に把握できるようになったんだ。
これによって農民は、土地の価値に応じた年貢を納めるようになるよ。
土地の標準収穫量は「石高」で表されるようになり、石高を基準とした体制「石高制」が確立したんだ。
秀吉が行った太閤検地では、古い権利関係を無くして、効率よく年貢を徴収できるようになったよ。