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2020年4月25日
天下統一の機運が高まる中、秀吉の天下統一に向けた最後の対戦となったのが「小田原征伐」とも言われる「小田原城の戦い」だよ。
小田原城は何度も戦が行われているからこの戦いは
小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)と呼ばれたりもしているよ。
難攻不落の城と言われていた小田原城を、秀吉はどのように開城したのかな?
ここでは小田原城開城について分かりやすくまとめてみよう。
目次
【関東一円を支配していた北条氏】
戦国時代、小田原城を本拠に、関東一円を支配していたのは北条氏だったんだ。
歴代当主5人は北条5代とも呼ばれているよ。
関東で理想の国家をつくろうと、1495年に北条早雲は大森氏を退け、小田原城へ入ると、北条氏は着々と勢力を伸ばしたんだ。
二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として大きく繁栄したの。
四代・氏政、五代・氏直は豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築くものの、秀吉の約22万もの大軍に小田原を包囲されてしまうんだ。
約100日に及ぶ籠城後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡してしまうよ。
【難攻不落の小田原城】
小田原城は拡張に拡張を重ね、戦国時代の日本では最大規模の大城郭となったそう。
城下町や街道を土塁と堀で囲む全長約9㎞の総構は、戦国時代には珍しく八幡山という本来であれば詰めの城までセットで囲んでしまうほど壮大なものだったんだ。
では、秀吉はいかにしてこの難攻不落の巨大城郭であった小田原城を攻略したんだろう?!
【秀吉の小田原攻めへの道のりとは?】
主君であった織田信長が自害した「本能寺の変」によって秀吉には突然天下取りのチャンスが舞い込んできたんだ。
秀吉の天下統一に最期に立ちはだかったのは関東の北条氏だったよ。
1589年秀吉は北条征伐の軍令を諸将に発し、22万ともいわれる大軍が進撃したんだ。
軍は二手に分かれ、西からの主力軍、北からの北方軍、さらには海上からの水軍体制も整えたそう。
北条軍は、最支城の諸将の主力を小田原城に集めており、難攻不落の小田原城の籠城戦を最初から決めていたんだよ。
しかし北条軍の数は8万人あまりと数的にみると圧倒的な不利な状況だったんだ。
【小田原城が落城した理由とは?】
籠城作成をとる北条軍に対して秀吉軍は山中城、玉縄城、江戸城など北条氏の支城を次々と攻め落としていったんだ。
北方からも前田利家の軍勢が支城を攻撃し、相模湾も封鎖。
こうして徐々に小田原城を完全に孤立させる包囲網を完成させていったんだ。
1590年6月には小田原城にほど近い西側の地に突如、城が現れたの。
これは「石垣山一夜城」とも呼ばれていて、秀吉が80日あまりで完成させたんだ。
城が完成する前で樹木などで城を隠していた石垣山城は、一夜で突然城が現れたような錯覚を北条氏に与えたそう。
石垣山城に本陣を移した秀吉は、小田原城に見せつけるように毎晩、宴を行い、北条軍の士気を下げさせたんだ。
結局、北条氏は投降し、小田原城は秀吉によって開城されることとなったよ。
秀吉は北条征伐を果たし、全国の大名を掌握したことで、天下統一を果たしたよ。
【北条氏直への降伏勧告は黒田官兵衛が行った】
北条氏への降伏勧告の使者を務めたのは、秀吉の右腕となった軍師・黒田官兵衛だったんだ。
これまで幾度となく敵を調略し、兵糧攻めや水攻めなど多くの戦略を秀吉とともに考えてきた官兵衛の実績が買われたんだよ。
官兵衛の勧告に対して、北条氏直の父・氏政は反対の意を示すものの、氏直は開城命令を受け入れたんだ。
氏直は自らの命と引き換えに城兵を助けてほしいと懇願したそう。
秀吉は氏直を助命するものの、父親の氏政やその重臣には切腹を命じたんだ。