豊臣秀吉の城攻め – 三木合戦 – 三木の干し殺し
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他の人が思いつかないような奇想天外な城攻めを行った豊臣秀吉は「城攻めの名人」として知られているね。
今回は秀吉が行った城攻めの中でも「高松城の戦い」をまとめてみよう。
目次
【三大城攻めの1つである「高松城の水攻め」】
秀吉は数々の攻城戦を制してきた城攻めの達人だったけれど、その中でも有名な城攻めを「三大城攻め」と呼んでいるんだ。
高松城の戦い、通称「備中高松城の水攻め」は、この三大城攻めの1つと言われているよ。
現在の岡山市にある備中高松城の水攻めは1582年(天正10年)に起こったんだ。
水攻めとは堤防で城を取り囲み、河川の水を引き入れて水没させる作戦のこと。
兵力でだけに頼らない城攻めで、大規模な土木工事を用いる戦い方として知られているよ。
【不落の城として有名であった「備中高松城」】
当時、備前岡山から先の中国地方は、毛利家が支配していたんだ。
備前・備中の境で織田軍と毛利軍が攻防戦を繰り広げ、1582年に秀吉は30000もの兵を連れて高松城を包囲したよ。
毛利軍の勢力はとても強く、毛利輝元が率いる40000人もの援軍が高松城に向かっているという知らせを聞いた秀吉は、急いで高松城を落とす必要があったんだ。
けれど高松城は平城で低湿地の場所に建てられていて、沼地が邪魔して、鉄砲や騎馬戦に強い城だったの。
不落の城で有名だった高松城は、湿地に守られ、簡単には近づけなかったんだ。
【湿地に守られた備中高松城の地勢を逆手にとった水攻め】
低湿地で沼地が邪魔してなかなか攻撃できなった高松城をなんとしても早く落城させたかった秀吉と黒田官兵衛は、その地勢を逆手にとって水攻めを計画したよ。
足守川の水をせきとめるために堤防を作ることにしたんだ。
城の周囲に堤防を作ることで、足守川の水を城域に引き入れて城を水没させるのが狙いだったの。
堤防の長さは約2.7㎞、規模は高さ約7m、幅は底部が約24m、上部が約10mにもなったそう。
なんとそんな大規模な堤防をわずか12日間で完成させるという突貫工事を行ったんだよ。
早く堤防を作るために、秀吉は周辺の農民を金銭や米と引き換えに雇い、土を運ばせたという記録も残っているそう。
最近の説では、蛙ケ鼻から現在の備中高松駅付近までの約300m、高さ2mほどの堤防であったというものもあるんだ。
この程度の規模であれば12日でも築堤できるよね。
はっきりしたことは分かっていないよ。
【みるみるうちに水浸しになる備中高松城】
秀吉による水攻め作戦は功を奏し、備中高松城はみるみるうちに水浸しになってしまったんだ。
ちょうど城攻めを行った時期が梅雨時期で、大雨が降ったことも水攻め成功の要因になったと言われているよ。
なんと200ヘクタールもの湖ができ、高松城は湖に浮かぶ孤島のようになったそう。
高松城は城内にも水が進入してしまい、援軍も来れない状況となってしまいます。
毛利輝元は高松城の近くの猿掛城に本陣を置いていたものの、水攻めによって身動きが取れなったんだ。
そこで輝元は秀吉と講和して、城主の清水宗治を切腹させて戦を終わらせたそう。
これが「高松城の戦い‐高松城の水攻め‐」の全貌だよ。
【高松城の城主、清水宗治の最期】
秀吉が高松城の水攻めを行っている時、京都にいる信長が明智光秀の謀反によって命を落としたという情報が入ってきたの。
これはあの有名な「本能寺の変」だね。
事態を知った秀吉は信長の死に対してひどく落ち込むんだ。
しかしそれに対して軍師・黒田官兵衛は「光秀を討てば天下が回ってくる」と、秀吉を鼓舞させたの。
秀吉はそこで急いで、毛利方に「3日中に和睦を結べば領土を譲歩し、高松城城主であった宗治の首を差し出せば城兵を助ける」と条件を提示したんだ。
この条件を聞いた宗治は、部下の命を助けることならばと、自害を決意したそう。
別れの宴を行った後、高松城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎだした宗治は、船上で舞を踊り、美しい辞世の句を詠み、切腹したんだよ。
秀吉は宗治の最期を見届けると、武士の鑑として宗治を称賛し、礼をつくして葬ったそう。