日本100名城と続日本100名城はどういう基準で定められたの?
2020年4月22日豊臣秀吉の城攻め – 鳥取城の戦い – 鳥取の飢え殺し(かつえごろし / 渇え殺し)
2020年4月23日
出世魚とは、成長とともに名前が変わっていく魚のこと。
代表的なのが「ブリ」だよね。
ブリは、はじめ「ツバス」と呼ばれているけれど、成長するに連れて「ハマチ」→「メジロ」→「ブリ」と名前を変えていくんだ・
天下人として有名な豊臣秀吉も、出世するたびに名前が変わっていたから、「出世魚」と呼ばれていたんだよ。
ここでは豊臣秀吉の名前についてまとめてみよう。
目次
【幼名は日吉丸】
豊臣秀吉は貧しい農民の家に生まれたんだ。
なんと農民の家に生まれて天下人まで成りあがった豊臣秀吉はまさに出世魚といえるね。
百姓の子供として生まれた秀吉はその当時「日吉丸」と呼ばれていたよ。
その後、成長した秀吉は「日吉丸」から「藤吉郎」と名乗ることになるんだ。
でもこの時には、まだ姓はなし。
貧しい農民の家の子であった秀吉には姓はなかったと言われているよ。
【木下藤吉郎を名乗るころ、信長と運命的な出会いを果たす】
秀吉18歳の時に、尾張国を治める織田家に仕えるようになり、「木下藤吉郎」と名乗るようになったんだ。
なぜ「木下」と名乗ったのかは、はっきりとわかっていないよ。
一説には信長との出会いが大きな木の下だったとも言われているんだ。
この時期に、秀吉は、主君である織田信長と運命的な出会いを果たすんだよ。
織田信長になんとか取り入るために、秀吉はあの手この手を使って知恵を絞ったと言われているんだ。
その中でも「草履」にまつわる話は有名。
雪が降る夜に信長が掃いた草履が温かかったそう。
なぜかというと、その草履を秀吉が懐に入れて温めていたから。
これをきっかけに、秀吉は信長から目をかけられるようになり、戦場でも大役を任されるようになったそう。
【秀吉を名乗るようになったのは武将になってから】
秀吉が「藤吉郎」から「秀吉」を名乗るようになったのは、秀吉が武将になった頃であると言われているよ。
また秀吉は地位が高くなるにつれて、苗字をどんどん変えていったんだ。
1573年頃は「羽柴」と名乗っていたよ。
この「羽柴」は先輩武将である丹羽長秀・柴田勝家の苗字からとったそう。
次に1582年頃からは「平」と名乗るようになるよ。
明智光秀を倒した後、秀吉は「平秀吉」「平秀吉朝臣」という名前で、いろいろな官位を受けているんだ。
1585年頃からは「藤原」にまたまた変わるよ。
秀吉が関白になる時に、藤原氏の養子になったそう。この養子縁組は形だけの養子だっと言われているんだ。
1586年からは僕たちがよく知っている「豊臣」姓になるよ。
この「豊臣」という姓は、天皇から賜った姓なんだ。
当時の秀吉は、天皇から姓を賜るほど、天皇から信頼を得ていたということ。
経済的な支援や屋敷に招いての接待などを行って秀吉は天皇に取り入っていたとされているよ。
豊臣の姓を得たことで、「天皇からの後ろ盾」を得た秀吉は、「自分こそが天下を治めるのにふさわしい天下人である」と諸大名にアピールしたんだ。
【官職も時代とともに変わった秀吉】
豊臣秀吉は自分の名前だけではなく、官職も時代とともに変化しているんだ。
官職とは、政務を行う重要な職のこと。
秀吉「関白」から「太政大臣」になり、最終的には「太閤」となるよ。
「太閤」という官職は豊臣秀吉の代名詞となっているので、知っている人も多いはず。
特に、関西地方では豊臣秀吉のことを本名ではなく「太閤はん」と読む人も多いんだよ。
【なぜ秀吉は5回も名前を変えたのか?】
豊臣秀吉は、1人の人物で少なくとも6通りの呼び方があったことが確認されているんだ。
名前を付ける理由は様々だけど、現在はその人個人を他と区別する役割が強いよね。
けれど、昔の人にとって名前は「その人個人を他と区別する」という役割よりも「その人がどんな地位にあるか?」を表す側面が強かったそう。
名前が地位や所属を表すということは、所属する勢力、年齢に伴う地位が変われば、その都度名前も変わったということ。
豊臣秀吉が何度も名前を変えているのも、所属や地位が変わったことが関係しているんだ。
また、秀吉は上を目指す野心家であったため「さらに上の地位にふさわしくありたい」という願望を示しているとも考えられているよ。