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2020年5月20日
安土宗論(あづちしゅうろん)は、織田信長の命によって行われた浄土宗と法華宗(日蓮宗)の間の法論のことだよ。
ここで安土宗論について簡単に解説していくね。
目次
【安土宗論って何?!】
安土宗論(あづちしゅうろん)は安土問答とも言われているんだ。
1579年(天正7年)5月中旬に、織田信長の命によって、安土浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の法論だよ。
浄土宗の僧である玉念・貞安・洞庫らと、法華僧である日珖・日諦・日淵らで行われたんだ。
昇り調子で突き進んでいた信長が琵琶湖畔の安土に城の構築を始めたのが1576年(天正4年)の2月のこと。
翌年の1577年(天正5年)には完成した城のある安土城周辺について定めた掟書を発行したり、家臣たちを安土へ続々と移動させたり、人が多く集まる相撲大会を行ったりして安土の町を活性化させていたんだ。
安土の町が発展しつつあった1579年(天正7年)に、関東から霊誉玉念なる浄土宗の長老が上方にやってきて、安土で諸説の会を開いていたの。
この諸説会には、法華宗の宗徒であった建部紹智と大脇伝介が参加しており、浄土宗の長老に向かって疑問を投げ代えて問答勝負を仕掛けたんだよ。
そのことが発端となって、宗論をやろうという流れになったんだ。
ちなみに宗論というのは、宗教の教義論争のことだよ。
【安土宗論はどっちが勝ったの?】
この安土宗論は噂が噂を読んで、京都だけではなく、近隣から多くの僧が見物に押し寄せ、騒ぎが大きくなり、信長の耳に入ることになったんだ。
そこで信長が、大げさなことにならないようにと両者に通達したの。
信長の通達に、浄土宗側は納得するけど、法華宗は気持ちが収まらなかったから、結局は信長がちゃんとした審判を派遣し、安土宗論を行うことになったんだよ。
審判者には京都五山のうちでも屈指の博学と評判の南禅寺の長老であった景秀鉄叟らを招いたそう。
法華宗側は、京都の頂妙寺の日珖(にちこう)、常光院の日諦(にってい)や妙国寺の普伝(ふでん)をはじめとする蒼々たるメンバーを揃え、浄土宗との宗論に備えたんだよ。
煌びやかな法衣をまとって登場したとされているよ。
一方、浄土宗側は黒染めの質素な衣で、霊誉や西光寺の聖誉貞安ら4人で登場したんだ。
討論が開始すると、すぐに浄土宗の貞安はまくし立てるように相手に詰め寄ったそう。
法華宗側が返答に困っていると、その様子を見て貞安がさらにまくし立て、会場からはどっと笑いがおきたんだ。
そのどさくさに紛れて、見物人の一部が法華宗の僧がまとっている袈裟を剥ぎ取ったそう。
それと同時に、浄土宗の霊誉長老が扇をもって立ち上がった姿は、舞いを舞っているのかのように見えたと言われているよ。
そばにあった法華宗側の教典は破られ、僧たちは四方八方へバラバラと逃げていったとのこと。
【安土宗論のその後は?】
安土宗論の結果を聞いた織田信長は、すぐに浄厳院に出向き、浄土宗の僧たちにたくさんの褒美を与えたんだよ。
また、安土宗論をやる発端となった大脇伝介と建部紹智は斬首されてしまったんだ。
さらに安土宗論に参加していた妙国寺の普伝も、他人に問答させておいて勝ちそうになってからしゃしゃり出ようという姑息な手段で参加したとして斬首させられたよ。
他の法華宗の僧たちは、負けを認めて伝介らと普伝の処分を受け入れること、他の宗派の非難はしないこと、いったん職を離れて勉強し直すことを約束した誓約書を提出させたと言われているの。