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2020年5月12日
戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教は禁じられるようになっていくんだ。
そんな中で秀吉が発令したのが「バテレン追放令」だよ。
このバテレン追放令とはどこで発令して、どんな内容だったのかな?
今回は秀吉が行ったバテレン追放令について分かりやすく解説していくね。
目次
【バテレン追放令って何?】
バレテンとはポルトガル語で「神父」を意味し、キリシタン宣教師のうち司祭のことを示すんだよ。
バテレン追放令は、1587年(天正15年)に秀吉が出した法令で、キリスト教宣教師に国外退去を命じたものだったんだ。
バテレン追放令は2つの文章のことを言うよ。
1つ目は1587年6月18日付の「11カ条の覚書」で、もう1つは1587年6月19日付の「五カ条の文書」だよ。
この2つの文章をまとめてみると、バテレン追放令の内容は以下の通り。
・宣教師を国外追放する、布教を禁止する
・一般の武士や庶民の信仰は自由である
・大名のキリスト教信仰は禁止する
・貿易のためにポルトガルやスペインなどの商人が出入国することは認める
というものだったんだ。
【なぜバテレン追放令が出されたの?その理由は?】
ではなぜバテレン追放令は出されたのかな?
その理由は諸説あるよ。
さっそくまとめてみよう。
・キリスト教の拡大を恐れたため
当時のキリシタン大名の中には、領国内の民衆を無理にキリスト教に改宗させていた者もいたよ。
また、神社や寺を破壊する大名もいたそう。
特に、長崎の大村純忠は、貿易を盛んにするために長崎を発展させ、この地をイエズス会の教会に寄附していたの。
このことを知った秀吉が、規制に乗り出したと言われているよ。
・一向一揆などの反乱を起こさないようにするため
キリスト教の信徒の多くが身分の低い者であり、キリスト教徒が盛んに行った一向一揆のようにが蜂起して反乱を起こすことを恐れたんだ。
・人身売買を辞めさせるため
長崎のキリシタン大名であった大村純忠は貿易を盛んにするために、キリスト教への改宗を積極的におこなっていたんだ。
その過程で、キリスト教に入信しなかった民衆に対しては、海外へ売り飛ばしていたそう。
これを秀吉は「ポルトガルやスペインの南蛮人が日本を植民地化する」ととらえていたんだよ。
この人身売買に危機感を覚えた秀吉は、バテレン追放令を発令したと言われているの。
バテレン追放令を出した直後に、秀吉は長崎を取り戻して直轄地にしているんだよ。
【バテレン追放令が不徹底だったのはなぜ?!】
バテレン追放令の内容を見れば分かるように、実はこのバテレン追放令は不徹底だったと言われているんだ。
ではなぜ不徹底だったんだろう?!
秀吉は大名に関してはキリスト教信仰を禁止したものの、一般庶民のキリスト教への信仰は禁止しなかったんだ。
また、貿易を行うヨーロッパ商人の動きにも制限をつけなかったの。
バテレン追放令は、「追放令」という割には緩い規制に見えてしまうね。
この理由は、南蛮貿易のためなんだ。
当時、日本と貿易をしていたのは、スペインやポルトガルなどのカトリックの国だったの。
カトリックは布教と貿易がセットになっているから、商人で宣教師でもある南蛮人が日本にいることは黙認するしかなかったそう。
バテレン追放令が出された後も、キリスト教の宣教師たちは、日本で布教活動ができたんだよ。
また、このバテレン追放令によって信者達が処刑されることもなかったんだ。
処刑されなかったのも、このバテレン追放令が不徹底だったことが理由と言われているよ。
【サン・フェリペ号事件をきっかけにキリスト教弾圧を強める】
不徹底だったバテレン追放令だけど、1596年のサン・フェリペ号事件をきっかけに秀吉はキリスト教に対する弾圧を強めたんだ。
1596年に土佐にスペインの船であるサン・フェリペ号が漂着したの。
この水先案内人が「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服していく」と話したため、秀吉が激怒したと言われているよ。
秀吉は京都にいたフランシスコ会の京都をとらえて、長崎に連行して張り付けの刑にして処刑したそう。
この中には日本人もいて、後にローマ法王によって日本二十六聖人に列せられたんだ。