金閣寺の見どころは舎利殿(金閣)だけではない!世界遺産、金閣寺の見どころスポットを徹底解説!
2022年5月4日ここは注目しておきたい!銀閣寺の見どころスポットを徹底解説♪
2022年5月16日前回は金閣寺を特集したけど、金閣寺といえばやはり銀閣寺だよね!
目次
【銀閣寺とは?】
銀閣寺の正式名称は「東山慈照寺」といい、相国寺の塔頭寺院の1つなの。
1490年に建立された銀閣寺は、室町幕府八代目将軍・足利義政によって造営された山荘東山殿を起源としていて、義政没後に臨済宗の寺院となったんだ。
この銀閣寺は、義政の祖父である足利義満が建てた金閣寺をモデルとしているの。
平成6年(1994年)にはユネスコ世界遺産にも登録されているよ。
【銀閣寺はどんな目的で建てられたの?】
銀閣寺は、室町幕府第8代目の征夷大将軍であった足利義政の住まい・居住地として建設された建物なんだ。
その当時征夷大将軍の職は息子である足利義尚に譲っていた義政は、征夷大将軍の邸宅である室町御所も息子に譲っていたため、住まいが必要だったそう。
そこで、金閣寺を見本に建てたのが、銀閣寺なの。
1482年に建設がスタートして、1490年に足利義政が亡くなるまで建設は続けられたよ。
結局、義政は銀閣寺の完成を待たずに亡くなってしまうんだ。
義政の遺言によって、禅宗となった銀閣寺は、義政の法号である慈照院にちなんで「慈照寺」と名付けられたの。
【銀閣寺を建てた足利義政は無能な人物だった?】
銀閣寺を建てたのは、金閣寺を建てた室町幕府3代目将軍・足利義満の孫にあたる「足利義政」だよ。
義政の祖父である足利義満が生きていた頃は北山文化が栄えており、金閣寺のように豪華絢爛なものが多かったそう。
この当時、室町幕府も絶大な権力を保持していて、豪華な生活を送っていたんだ。
しかし義政が生まれてきた時代は財政難に陥っていて、とても豪華な生活をする余裕などなかったそう。
そのため、足利義政の時代に栄えた東山文化は、わびしく寂しいものが好まれる文化だったんだ。
実は、足利義政は応仁の乱が起きた元凶であると言われているんだ。
義政は政治能力がなく、優柔不断な性格であったために、政情は混乱が起こったそう。
ただ政治能力には乏しい足利義政であったものの、美しい建物やお庭を作るなど、芸術的な能力には人一倍優れていたんだ。
そのため、銀閣寺の庭園は、その当時から非常に美しく話題になっていたよ。
【銀閣寺という名前なのになぜ「銀」ではないの?】
金閣寺は金が貼られているのに対して、銀閣寺は「銀」という名前がついているのに銀ではないよね。
人によっては、銀閣寺=銀色をしているとイメージしている人も実は多いの。
そもそも慈照寺が銀閣寺と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからなんだ。
この「銀閣寺」という名前の由来は、足利義満が建立した金閣寺に対比してそう呼ばれるようになったんだよ。
銀閣寺に銀箔が貼られていない理由については、これまで様々な諸説が飛び交っていたの。
しかし2007年に行われた学術調査で、元々銀閣寺の外壁には、銀箔が貼られた痕跡がないことが分かったんだ。
内装・外装ともに黒漆塗であった、銀閣寺には創建当初から銀箔を貼ろうという計画もなかったのではないかという説や、銀箔を貼る費用がなく経済的に苦しい状態であった…という説もあるの。
また、足利義政の時代に隆盛した「東山文化」のコンセプトは、禅宗の影響を受けていて、とても簡素な文化。
そのことからも、銀箔を貼っているお寺だと、東山文化とはかけ離れたものになってしまうよね。
名前は「銀閣寺」だけど、実際には銀箔は貼られたことがないというのを覚えておこう!
【金閣寺と銀閣寺の共通点とは?】
金閣寺と銀閣寺の共通点は、どちらも室町幕府・足利将軍の別荘であったことだよ。
金閣寺も銀閣寺も、元々は室町幕府・足利将軍の別荘として建てられたんだ。
金閣寺は室町幕府3代将軍・足利義満、銀閣寺は室町幕府8代将軍・足利義政の別荘だったの。
また金閣寺と銀閣寺は、どちらも相国寺の塔頭寺院になるよ。
相国寺は3代将軍・足利義満によって創建され、ほぼ同時期に金閣寺も建てられたの。
金閣寺・銀閣寺ともに、足利家の歴代将軍が創建したお寺として、相国寺の塔頭寺院になっているんだ。
【金閣寺と銀閣寺の違いとは?】
金閣寺と銀閣寺は、見た目はもちろんたくさんの違いがあるんだ。
その違いをまとめてみよう。
<別荘造営の目的>
金閣寺と銀閣寺では、そもそも別荘造営の目的が異なるよ。
・金閣寺
金閣寺は、京都北山に粋をつくした豪華な別荘として建てられたんだ。
華麗な舎利殿(金閣)は、義満の権威と王朝へのあこがれを具現化した建築物とされたの。
その当時、御所に匹敵する規模があった金閣寺で、義満は政治中枢のすべてを集約して実権を握り続けたんだ。
・銀閣寺
銀閣寺を建てた足利義政は、幕府の主導権を握れず、政務への関心を失っていたの。
さらに家督問題から応仁の乱が発生し、11年間にわたって戦乱が起こって、京都は壊滅的な被害を受けてしまうんだ。
義政は、政治から退き、別荘として建てた銀閣寺に移り住み、趣味の建築や庭園に財を費やしたそう。
五山派の禅僧、公家・武家だけではなく、身分を問わず優れた才能を引き立てて、茶の湯、絵画などに親しむ文化的な生活を満喫したんだ。
<北山文化と東山文化>
金閣寺と銀閣寺では、建てられた時代によってそれぞれ違う文化が発展していたの。
金閣寺の頃は北山文化、銀閣寺の頃は東山文化の影響を大きく受けているよ。
それぞれの文化をまとめてみるね。
・北山文化
優美で華やかな公家よりの文化。
・東山文化
わび寂びが特徴の禅宗よりの文化で、枯山水庭園も東山文化の代表的庭園様式なの。
【なんで銀閣寺は京都市街地に背を向けているの?】
銀閣寺1階の縁側は東を向いていて、西側にある京都市街地に背を向けているかのようになっているの。
なぜ、銀閣寺が東向きに立っているのかというと、実は足利義政の苦悩があったからなんだ。
足利義政には跡継ぎがいなかったため、弟の義視を養子として、将軍職を譲ることになったんだ。
しかし、息子・義尚が生まれたことによって跡継ぎ問題が急浮上してしまうの。
この将軍職を巡る争いが「応仁の乱」なんだ。
京都を戦場に約11年も続いた応仁の乱によって、京都はそのほとんどが焼け野原となってしまうの。
さらに正室であった日野富子の実家まで介入し、義政の政治力はどんどんと低下し、戦を止めることができなったんだ。
政治能力のない義政は、現実逃避するように隠居先として東山山荘(銀閣寺)を建てたの。
都に向かって背を向けている銀閣の姿は、義政の「京の都をもう見たくない」という気持ちの表れなのでは?と言われているよ。
【銀閣寺の住所とアクセス】
住所
京都府京都市左京区銀閣寺町2
アクセス
バスの場合
京都市バス『銀閣寺道』下車 など