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2020年5月8日
奉公構(ほうこうかまい、ほうこうかまえ)という言葉を聞いたことはあるかな?
奉公構は桃山時代~江戸時代に、武家が家中の武士に対して科した刑罰の1つなんだ。
この奉公構は、豊臣秀吉が全国に行きわたらせた法としても有名だよ。
ここでは、奉公構について分かりやすく解説していくね。
目次
【奉公構ってなに?】
奉公構は武家奉公構とも呼ばれていて、武家が家中の武士=家臣に対して行う刑罰のこと。
集団からの追放を意味するんだけれど、旧主の赦しがない限り、将来の雇用も禁止されているという刑罰なんだ。
通常の追放刑よりも奉公構の方が、一層重い罰であったと言われているよ。
【切腹に次ぐ重い重刑だった?】
奉公構は奉公先から逃げ出した家臣、奉公先を首になった家臣に対して言い渡されていたんだ。
浪人となった家臣は、他の家が雇えないように書状で知らされていたそう。
奉公構を言い渡されてしまった武士は他の主に仕えることができなくなってしまうから、勤め先がなくなるということ。
つまり、今でいう無職の状態になってしまうんだ。
さらには家禄もなくなってしまうわけだから、武士にとっては切腹に次ぐ重たい刑罰だったんだよ。
【奉公構を始めたのは豊臣秀吉】
奉公構という刑罰を初めて行ったのは、豊臣秀吉なんだよ。
江戸時代に入ってからは、武家諸法度の中にはも奉公構が取り入れられていて、江戸時代にも広く行われていたそう。
奉公構の概念は、戦国大名の分国法ですでにみられていたものの、所領に限られていたため、境を超えてしまえば自由にできたそう。
そこで、秀吉は天下統一をしたことによって、奉公構を日本全国に行き渡らせたんだよ。
【奉公替えによって出世することが難しくなる…】
武士たちは、戦国時代のように仕官の出奔を繰り返して家々を渡り歩いて奉公替えによって出世するということができなくなってしまうの。
簡単に出奔はできなくなってしまうんだ…
でも、豊臣政権下での奉公構は、必ずしも守られていなかったそう。
蒲生氏郷が会津に転封された時に家臣が不足したことから、奉公構を受けた浪人の雇用が公認されたこともあったんだって。
厳格には施行されていなかったというの実情のようだよ。
【日本人の働き方は奉公構が影響している?!】
日本人の働き方といえば、転職や中途採用よりも、同じ会社に勤務し続けるのがよいというイメージが強いよね。
今では転職も当たり前になりつつあるけれど、ひと昔前の日本では終身雇用が絶対という風潮だったんだ。
実はこの日本人の働き方は、奉公構からきていると言われているんだよ。
奉公構を言い渡されてしまうと再出発が困難になってしまう。
現代でいうところの中途採用という概念がなくなってしまったんだ・・・
その考えが根づいて、1つの主のもとで一生働くという働き方が日本に定着したと言われているよ。
秀吉の時代から行われていた奉公構の考え方が、現代の働き方にも通じているというのは驚きだよね。
日本での終身雇用が多い理由がよく分かるね。
【築城の名手藤堂高虎も家臣を奉公構した?】
築城技術が優れていて、今治城、二条城、宇和島城などたくさんの築城に携わった藤堂高虎は家臣を奉公構をしたんだ。
高虎に仕えていた家臣である渡辺了(さとる)は、徳川家の譜代たちを無視するような形をとって大坂城へ突撃してしまったの。
この勝手な行動を高虎は許さず、また了も意地を張り続け、藤堂家から出奔してしまうんだ。
しかも出奔する時には、鉄砲の火縄に点火した状態だったそう。
さすがの高虎も了の行動に対して腹を据えかね、「奉公構」という扱いをしたんだよ。
奉公構はよほどのひどいことをしない限り受けない重罰だけど、了はそれほどのことをしてしまったんだ…