奉公構ってなに?現代の社会に今も影響がある豊臣秀吉が全国に行き渡らせた法を解説
2020年5月6日喧嘩停止令の意義と意味は?内容を簡単に紹介
2020年5月8日
大人気歴史シュミレーションゲームの「信長の野望・大志」で豊臣秀吉が行った「惣無事令」という法令を知ったという人も多いはず。
ゲームの中でも登場する「惣無事令」とはいったいどのような法令だったのかな?
今回は、豊臣秀吉が制定した「惣無事令」について分かりやすく解説していくね。
目次
【惣無事令って何?】
惣無事令は1585年(天正13年)頃に関白に就任した豊臣秀吉が、諸大名に対して大名同士の戦、私戦を禁止した法令のことだよ。
この当時、戦国大名がそれぞれ侵略政策を自主的に決めていた時代だったんだ。
そのため大名間での争いも多く、この惣無事令ができたんだよ。
惣無事令の法令を破った違反者は、秀吉の命令によって厳罰を与えられ、討伐されたそう。
この惣無事令は、後の秀吉の天下統一の足掛かりになったとも言われているの。
【なぜ惣無事令が制定されたの?】
秀吉が惣無事令を発令したのは、四国征伐が完了した頃だったんだ。
この惣無事令が発令された目的はいくつかあったんだよ。
まとめてみよう。
・大名の領土を拡大を防止するため
全国の大名に対して発令された惣無事令は、大名同士で戦うことを禁止することで、領土を拡大することを防ぐのが目的だったんだ。
・領土紛争の裁定を行うため
大名同士が争うことがなくなった場合、領土紛争が発生するよね。
その領土紛争の裁定を秀吉自身が行えるようにするために、惣無事令はできたと言われているんだ。
・平和秩序を守るため
惣無事令を発令することで、他国の領土を侵すことなく平和な状態を作りだすことができるね。
このような目的を持って、秀吉は惣無事令を行ったんだよ。
【惣無事令は、天皇の下で発せられた命令だった?!】
実はこの惣無事令は、1585年当時、秀吉の支配下になかった九州の大名に対して、天皇の下に私戦を禁止する法令として出されたんだ。
農民あがりの天下人になる前の秀吉がこの惣無事令を出した場合、全国の大名は「農民あがりの秀吉の言うことには従えない」と言われる可能性があったの。
そこで日本で一番えらい存在である天皇の下に惣無事令を出すことによって、大名を無理やり支配下に置いたんだよ。
その当時の秀吉の役職は天皇の補佐をする「関白」だったから、惣無事令を天皇の下で発令することができたんだ。
【惣無事令を破った大名たちもいた?!】
実は惣無事令を破った大名たちもたくさんいたんだよ。
まとめて紹介していくね。
・九州征伐
1585年に九州地方に対して惣無事令が発令されるんだけど、この惣無事令によって九州地方では完全に戦争がなくなった…ということはなかったの。
この時期、九州では島津家が九州統一寸前まで到達していたんだ。
島津家は秀吉が発令した惣無事令に対して「なぜ九州と関係のない秀吉が九州の戦争に介入するのだ?」となったそう。
秀吉は島津家によって滅ぼされかけていた大友家が秀吉に臣従したことで九州征伐を決意したんだ。
秀吉は島津家が惣無事令に違反しているとして、約20万もの軍勢で九州に出兵したよ。
島津家は少ない軍勢で戦い、最初は豊臣軍を撃破するものの、最終的に本拠地がある薩摩を攻められる直前に降伏。
薩摩・大隅を領有することを許される代わりに、秀吉の下に降りたんだよ。
・小田原征伐
九州を制圧した秀吉は、九州征伐から2年後の1587年に関東・東北の諸大名に対しても惣無事令を発令したんだ。
この頃には、惣無事令は戦争を無くすことよりも、秀吉に従わなければ潰されるという脅しのような存在になっていたそう。
この惣無事令に反発したのが、関東を制覇していた北条家だよ。
秀吉からすると北条家を倒せば関東地方を自分のものにでき、天下統一まであと一歩のところまできていたんだ。
秀吉は北条家の名胡桃城攻撃に激怒し、21万の大軍で小田原征伐をスタート。
北条家の城を、次々と落城させ、本拠地である小田原城を落城させたよ。
・奥州位置
小田原征伐によって関東地方を制圧した秀吉は、宇都宮城において宇都宮仕置という東北大名の領地を決めた裁定をおこなったんだ。
さらに、秀吉は1590年には東北地方に対して惣無事令が発令した1588年以降の戦いを無効化したんよ。
1588以降の戦いで奪った領地を没収する奥州仕置を行い始めたの。
これによって、惣無事令に違反した伊達政宗は72万石に減らされ、一揆を煽ったとして72万石と会津を没収されたんだ。
また、小田原征伐に参加しなかった葛西家や大崎家などの東北大名は秀吉によって改易されたよ。
秀吉は全国に惣無事令を行ったことによって、本能寺の変から8年後には天下統一を果たしたんだ。