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みんなは清洲会議って知ってる?
清洲会議は羽柴秀吉が天下統一に近づいた重大局面であったとも言われているんだ。
歴史を動かしたとも言われる清州会議について分かりやすくまとめてみよう♪
目次
【清州会議(きよすかいぎ)って何?!】
天下統一に突き進んでいた織田信長は、突如配下であった明智光秀によって討たれてしまうね。
これは有名な「本能寺の変」だよ。
本能寺の変によって、織田家の家臣たちは突然主君を失うという非常事態に陥ってしまうんだ。
そんな中で開かれたのが「清洲会議」なんだよ。
清洲会議とは天正10年(1582年)に、織田信長の死を受けて、織田家の後継者を誰にするのか?
領地をどうやって再分配するのか?
など今後について話し合った会議のこと。
尾張の清洲城で行われたことから「清洲会議」と呼ばれるようになったんだよ。
【どんな武将が清洲会議に参加していたの?】
清洲会議に参加していた武将は、織田家の根幹をなしていた4人の家臣だったんだ。
・柴田勝家
織田信長の父・信秀の頃から織田家に仕えていた勝家は、猛将で筆頭家老でもあったんだ。
・丹羽長秀
政治面で力を発揮し、勝家とともに織田家の双璧と言われていた二番家老だよ。
・池田恒興
幼少期から織田家に使え、母が信秀の側室に迎えられたため、信長とは義兄弟の関係だったんだ。
信長の弔い合戦で功績をあげ、家老となったよ。
・羽柴秀吉
のちの豊臣秀吉。たぐいまれな才覚によって、農民出身ではあるものの出世し、中国返し、弔い合戦などを任されていたよ。
すごいメンバーが会議に参加していたのがよくわかるね。
【なぜ清洲会議は行われたの?】
本能寺の変によって、明智光秀は天下人となるものの、弔い合戦を仕掛けた羽柴秀吉に敗れ、その天下はわずか13日だけでした。
一夜にして主君と後継者であった嫡男・信忠を失った織田家は、各地で攻防が続いており、諸大名の反転攻勢が起きる前に、しっかりと新体制を発足させる必要があったんだ。
そのために清洲会議が行われたと言われているよ。
この清洲会議が行われたのは明智光秀の死からわずか12日後のこと。
早急に話し合いをしなければいけない緊迫した状況であったことがよく分かるね。
【清洲会議で決まったこと】
清洲会議では、
・後継者の決定
・領土の再分配
が話し合われたんだ。
織田家の後継者問題については、信忠の嫡男・三法師(秀信)がなることで決着したんだ。
これは秀吉が意見を主導したよ。
後継者をめぐって織田家内では対立があったものの、家臣の中では信忠の嫡男・三法師(秀信)が継ぐことは一致していたとも言われているんだ。
領地の再配分にしては、
・柴田勝家:越前と長浜城、北近江3郡の12万石
・丹羽長秀:若狭と近江2郡の15万石
・池田恒興:摂津3郡の15万石
・羽柴秀吉:山城・河内・丹波の28万石
となったよ。
秀吉は勝家の倍以上の石高を得ていて、この会議によって秀吉が一気に権威を高めたのがよく分かるよね。
【信長の後継者を巡り、秀吉が力を見せつけた】
弔い合戦に勝利した秀吉は発言力を急速に強め、清洲会議でも後継者選びで意見を主導し、領地の再分配でも古参の家臣よりも多く獲得したよ。
筆頭家老であった勝家の影響力は低下し、その代わりとして秀吉がトップに躍り出たんだ。
後継者の三法師はその当時3歳であったため、実質的な織田家のリーダーの座は秀吉になるよ。
この清洲会議は、秀吉が天下人となるための着火剤のような役割を果たしているとも言われているんだ。