斑鳩三塔の1つ「法起寺」は法隆寺と共に世界遺産に認定されているの?
2021年9月7日聖徳太子が建立した日本初の官寺「四天王寺」の見どころを徹底解説!
2021年9月7日
奈良にある斑鳩町には、美しい3つの塔があって「斑鳩三塔」と呼ばれているんだ。
その斑鳩三塔は、「法隆寺の五重塔」「法起寺の三重塔」そして、「法輪寺の三重塔」だよ。
今回は、斑鳩三塔の1つである三重塔が有名な、法輪寺についてまとめてみよう。
目次
【法輪寺とは?】
法輪寺は斑鳩の北方・三井(みい)の地にある聖徳宗の寺院で、別名「三井寺」とも呼ばれているよ。
飛鳥時代に創建されたお寺であり、法隆寺東院の北方に位置しているの。
現存する三重塔は1975年(昭和50年)に再建されたもののため、法隆寺や法起寺のように世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていないんだ。
【法輪寺の歴史】
法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明なんだ。
ただ、戦後に行われた発掘調査の結果などから、7世紀中頃には存在していたと言われているよ。
また、その発掘調査から、法隆寺式伽藍配置をとり、七堂伽藍を完備していたことも分かったの。
ちなみに、法輪寺にある本尊薬師如来像や、虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古い像なんだ。
創建については「日本書紀」や「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」にも記載はないんだけど、古くから2つの説が言われているよ。
1つ目の説は「聖徳太子伝私記」にある、聖徳太子の子息・山背大兄王が、聖徳太子の病気平癒を祈るために、推古天皇30年(622年)に創建したという説。
もう1つの説は、「上宮聖徳太子伝補闕記」「聖徳太子伝暦」によるもので、創建法隆寺が焼失後に、百済の開法師・円明法師・下氷新物の3人が建てたという説なの。
【法輪寺の三重塔は落雷によって焼失してしまった?】
斑鳩三塔の1つであり、美しさを称賛されていた法輪寺の三重塔は、太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)7月21日に、落雷によって焼失してしまうんだ。
仏舎利や塔内の釈迦如来像、四天王像は救い出されたものの、三重塔はまさに火柱となり、身をよじるように燃え落ちてしまったの。
これは、避雷針が太平洋戦争中の金属類回収令によって撤去されていたためと考えられているよ。
焼失前の三重塔は、わが国最大最古の三重塔として、明治時代より国宝指定を受けていたの。
しかし、全焼してしまったために、国宝指定は解除されてしまったよ。
【三重塔の再建には31年間もかかった?】
実は、法輪寺の三重塔が焼失してから、再建されるまで実に31年間もの期間がかかっているんだ。
三重塔が全焼した直後から再建を願うものの、なかなか話は進まず、昭和30年代後半になって、当時の住職であった井ノ上慶覚師によって、再建事業としての形を取り始めたの。
しかし、国宝指定が解除されて公的援助が見込めないため、小さな寺の独力による再建は、大阪万博の景気やオイルショックなど当時の経済変動も影響して、困難を極めたんだ。
昭和44年(1969年)、再建のための勧進を主導していた井ノ上慶覚師は病気で亡くなってしまうため、息子の井ノ上康世氏が後を引き継いで、募金活動を続けたものの、再建事業は難航。
そんな中、作家である幸田文さんとの縁が転機となるの。
父・幸田露伴氏の代表作「五重塔」のモデルとなった、天王寺の五重塔焼失を目の当たりにしていた文さんは、ある出版社を通して法輪寺の勧進の話を知ったの。
その話を聞いて、文さんは法輪寺三重塔再建のため、企業や個人を回って寄金を募り、住職と共に免税申請をかけ合い、講演会やメディアへの執筆をしながら、全国を巡ったんだ。
すると「文さんの話を聞きました」「書かれたものを読みました」と、全国からの支援は2万人に及び、昭和47年(1972年)10月8日にいよいよ起工式が執り行われたよ。
三重塔再建の設計は、法隆寺の昭和大修理でも知られる竹島卓一博士、工匠は法輪寺の信徒総代であった宮大工・西岡楢光氏と長男・常一氏、次男・楢二郎氏ら、西岡家が手がけたんだ。
昭和50年(1975年)3月末に、三重塔は西岡常一棟梁のもと、旧来の場所に創建当初と同じ姿で、ついに竣工を迎えたよ。
塔内には、三重塔の焼失時に救出された仏舎利や釈迦如来坐像、四天王像が納められたの。
若々しい塔ならではの魅力としては、「天人の楽」にたとえられる風鐸の音を聞くことができる点や、塗られているベンガラ色が鮮やかな点などがあるよ。
【法輪寺の伽藍】
法輪寺の伽藍は昭和25年(1950年)に行われた境内地の発掘調査によって、現在の金堂、講堂は旧位置と同じ場所にあることが分かったの。
また、現在では廻廊が失われているものの、中門・廻廊が塔と金堂をめぐって北で閉じ、廻廊の外に講堂が立つ法隆寺式伽藍配置であったこと、規模は法隆寺西院伽藍の3分の2であることが明らかになっているんだ。
次に法輪寺の境内について簡単にまとめてみよう。
<三重塔>
法輪寺の三重塔は、前述した通り、昭和時代に再建されたもの。
内部の特徴としては、心礎が地下式で、旧三重塔の心礎をそのまま使っているんだ。
基壇面より、約2m50㎝地下に掘られている心礎の中央には、直径15㎝の舎利孔が半球状に穿たれていて、塔が焼失した時に拾得された仏舎利が、内側より順に瑠璃・金・銀・銅の壷に入れ子状に納められ、安置されているの。
外観に関しては
・円い柱の下方に胴張りが際立っている
・軒を仰ぐと、小天井が張られていないので、一重垂木の角材が軒より内部へ引き込まれている
・円柱の上の皿斗のついた大斗からは勇壮な雲形肘木がせり出して軒を支えている
などの特徴がみられるよ。
<金堂>
現在の金堂は、江戸時代の正保2年(1645年)の台風で倒壊してしまった後、三重塔が修復された宝暦10年(1760年)の翌年に再建されたものなんだ。
昭和25年に行われた発掘調査によって、旧金堂の位置を踏襲しながら、旧金堂よりも一回り小さくなっていることが判明したよ。
<講堂(収蔵庫)>
講堂は僧が勉強するためのお堂で、塔、金堂とともに、伽藍の中心となる建物。
現在の講堂は、金堂と同時期に再建された江戸時代の小さな講堂を、昭和35年に鉄筋コンクリートの収蔵庫として建て直したものなの。
規模は縮小したものの、旧講堂の位置を踏襲して建てられたんだ。
本尊の薬師如来など11体の仏像を安置していて、出土瓦、伽藍図や塔の模型などを公開しているよ。
<妙見堂>
妙見堂は、秘仏の妙見菩薩立像をお祀りしていて、1年の除災招福と諸願成就を祈願する節分の日の星祭りや、毎月の護摩供などを行う、行のためのお堂。
<地蔵堂>
地蔵堂は江戸時代の建物で、鎌倉時代末の石造りのお地蔵様をお祀りしているお堂。
<西門>
西門は、上土門(あげつちもん)の数少ない遺構の1つ。
本来は板を並べた上に土を置き、妻に土留めの絵振板を置いたものなの。
両妻に絵振板台と絵振板を残しながら、本瓦をのせ棟門の状態になっていたものを、昭和50年代に板葺の形で修復。
上土門は絵巻物などに多く描かれていて、かつては武家の邸宅や寺院などに盛んに造られていたんだ。
現在では、この門のほかには、法隆寺西園院上土門が残るだけになっているんだよ。
<木造薬師如来坐像(重要文化財)>
木造薬師如来坐像は、旧・金堂本尊で、現在は収蔵庫に安置されているの。
飛鳥時代後期の作品とされていて、クスノキ材の一木造で、像高は110.2㎝。
右手は掌を正面に向けて上げ、左手は掌を上にして膝上に置く如来像なんだ。
<木造虚空蔵菩薩像(重要文化財)>
木造虚空蔵菩薩像は、飛鳥時代後期の作品。
クスノキ材の一木造で、像高は175.4㎝で、旧金堂安置像で現在は収蔵庫に安置されているよ。
反花座の上に直立し、右腕は肘から先を正面に向けて突き出し、掌を上へ向け、左腕は掌を後方に向けて垂下し、水瓶を持っているよ。
【法輪寺の近くにある三井は聖徳太子が掘った井戸?】
法輪寺の近く、旧境内地に含まれる場所には、三井(国指定史跡)があるよ。
三井とは井戸のことであり、聖徳太子ゆかりの3つの井戸のうちの1つなんだ。
法輪寺を参拝した際には、ぜひこちらもチェックしておきたいね。